空しく過ぐる者なし
天親菩薩
インドの天親菩薩の偈文の言葉です。
「仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ。」(『真宗聖典』一三七頁)
なぜ、天親菩薩が詠われたかと言えば、仏様の本願力に感謝し、極楽浄土を思い描き、仏様を観じて、往生極楽を願って生きていますということをはっきりと表明したかったからです。その感情の高鳴りを歌に残したいと思ったからではないでしょうか。
仏様との出遇い。仏様の本願との出遇い。「仏様の国に生まれなさい。もし生まれることができないならば、私は仏になりません。」と誓われ、私たちを召喚してくださる、招き呼んでくださる、仏様の本願。
本願に出遇ったならば、この現実の世界の中で迷い苦しんでいる、いかなる人においても、人生が空しく過ぎ去っていくということはないのであります。
迷い、苦しみ、悲しみが消えるというのではありません。その迷い、苦しみ、悲しみが無駄ではなく、すべて意味あるものとして人生が開けてくるのです。
仏様の功徳。仏様からの功徳を、自分の身に感じさせていただいて、心にその功徳を賜って、信を賜って、力強く生きていく者とならせていただくのであります。
空過する人生を転じて、仏様の功徳の中で生かされている人生に気づかせていただくわけであります。不虚作住持功徳(ふこさじゅうじくどく)であります。
生きる意味が、転換、転成(てんじょう・性質が変わるということ)されるわけであります。
ところで、仏教は“自覚”の宗教と言われています。それは、仏様と向きあい、同時に自己とも向き合うからであります。仏様の智慧(真実)に照らさせて、自己を顧み、自分の存在・あり方等に目覚めさせていただく宗教だからであります。
自己を顧みた時、自らが、自分の考え、思い込み、計らい、しがらみに気づかず煩い悩みに沈んでいる心(煩悩)に満ちていることに気づかされるのであります。
「煩悩を否定すること。消滅させること。」「煩悩を肯定すること。助長させること。」仏教は、どちらでもありません。
「煩悩を転成すること。成善(じょうぜん・悪がそのまま善に転ずること))させること。」これが、仏教であります。
親鸞聖人は、以下のように詠われています。
「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水(じょくし)へだてなし」
最後の「煩悩の濁水へだてなし」という表現が、天親菩薩の言葉より一歩踏み込んだ、仏教の要をより明確に示されているのではないでしょうか。
最後に、仏様の光明に照らされて、仏法を聴聞し、念仏に生きていく生き方こそ、真宗門徒であると感じるのであります。
森林公園支坊 川満 康裕