スナフキンとは、フィンランドの作家トーベ・ヤンソンの小説・漫画『ムーミン』に登場する、哲学思考を好む放浪者です。
私は、この言葉は仏教の精神だと感じました。人々が感動する言葉には、真実が垣間見えます。嘘の言葉に心は動きません。感動とは、心が動くということです。ここで気を付けなければいけないことは、心が動けばその言葉は全て真実である、とは言えないということです。あくまでも真実が垣間見えるということであって、その言葉自体が全て真実ではない、ということです。心を動かすのは言葉ではなくて、言葉の中にはたらく真実が心を動かすのです。世間には色んな言葉が存在しますが、大切なことは、まず言葉に感動することです。そして、もっと大切なことは、そこにはたらく真実に感動するのだということです。そのことを押さえておかないと、危険思想に感動したかのような錯覚に陥りかねません。危険思想の中にも真実のはたらきはあるのです。だから心が動くこともあります。真実のはたらきに触れて心が動く。でも、危険思想はやはり危険なのです。自分を大切に出来ない、それは他人を大切に出来ないということで、命を尊いことと出来ないことが危険思想ということです。
さて、「そのうちなんて当てにならないな 今がその時さ」ですが、何故、そのうちは当てにならないのでしょうか。蓮如上人という御方が書かれた『白骨の御文』に次のような御言葉があります。
「きょうともしらず あすともしらず」
私の命は、ご縁によって今あるけれども、今頂いている命であって、極端に言うと、1分後に命があるという保障もないのです。また、
「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」
とあります。朝起きた時には顔色が良く元気であっても、縁があって命が終われば日が沈む頃には白骨となってしまうような命だということです。生・老・病・死、全てはご縁によるものです。この道理を頭では理解していても、自分の命がそうだと頷くことは大変難しいのです。朝起きた時に目が覚めるのはあたりまえだと思っています。言い換えるならば、寝る時に、明日の朝、目が覚めないかもしれないとは思えません。
いつ縁あって終わるかもしれない命だと気付かされれば、本当にしたいこと、せずにはいれないことは、後回しにはできません。「今がその時さ」と思えることは、本当に大切なことなのです。私にとっては、生きる喜びを感じる命を生きたい、ということは、どうしてもしたいことなのです。そのうち思えればいいや、などといっていられません。その為には、命は輝いているのだということを教えてくださる真実に触れなくてはなりません。今がその時なのです。
私はただ尊い存在です。本当はそこに条件は存在しないのですが、尊いことに条件を求めてしまいます。条件が良ければ尊いのです。ですから、求める条件が満たされないと、不満が出て尊くなくなるのです。ある条件が満たされると、更に別の良い条件を求めてしまいます。ですから、満たされて満足、ということはないのです。比べれば優劣が生じ、命にでさえ優劣をつけてしまいます。しかし、命を評価するということ自体が危険思想なのです。私が満足できるか否かで命の尊さを感じる、非常に恐ろしいことです。ただし、真実に触れなければそのことが分かりません。真実に触れる為には、真実のはたらきを言葉に表した仏さまの教えを聞くほかないのです。
スナフキンの言葉に真実のはたらきを感じ、そのことに心が動くのだと思います。
江戸川本坊 高木通達