親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、釋尊(しゃくそん)がこの世間にお出ましになられた目的を「正信偈(しょうしんげ)」に、「如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海(みだほんがんかい)を説かんとなり」とあらわされ、「ただただ、私たちに、阿弥陀仏の本願のことを教えようとされたためであった」と、頷(うなず)かれておられます。
釋尊は、私たちが生きるこの世は、五濁悪世(ごじょくあくせ)であると教えてくださいました。五濁とは劫濁(こうじょく)(時代の汚れ)、見濁(けんじょく)(邪な考え、見方)、煩悩濁(ぼんのうじょく)(欲・怒りなどに溢れる)、衆生濁(しゅじょうじょく)(人間の資質が低下する)、命濁(みょうじょく)(人心が濁り、寿命も短くなる)という、五つの濁りのことをいいます。
このような五濁の世のなかで、苦悩しているのが人間であり、また、この世に愛着し離れたくないと思うのも私たち人間の姿でありましょう。その人間の苦悩・迷いの果てしなさを、釋尊みずからが我が身のこととして憐み悲しみ、仏の願いを私たちに差し向けることこそが、釋尊が世に出られた本当のお気持ちであると、親鸞聖人は受けとめられたのだと思います。
親鸞聖人は、自覚された人間のありようを、「罪悪深重煩悩熾盛(ざいあくじんじゅうぼんのうしじょう)の衆生(しゅじょう)』(「歎異抄」真宗聖典六二六頁)というお言葉で表されました。果てしなき煩悩に苦悩しながら迷い続けて生きる私たちが救われるためには、釋尊が説かれる仏さまの願いに生きるしかないことを、親鸞聖人に教えられます。
私は、そこに仏さまの深い大悲を感じます。釋尊が、この世にお生まれになられた本当の理由、「出世本懐(しゅっせほんがい)」は、他でもない、この私を救ってやりたいという、仏さまの大悲を私に差し向けてくださるためであったということが知らされます。
私の苦悩が深ければ深いほど、仏さまの願いは、私の悲しみに寄り添って、
深く広く果てしない海のごとくに私を包み込もうとしてくださる大悲のはたらきに、南無阿弥陀仏の願いを聞かせていただきます。
江戸川本坊 銀田 琢也