私は人生の中で許せない人がいたら随分悩んでしまいます。しかし、その悩みの原因は、「許せない人」ではなく、実は、自分にあるのではないかと思います。
私は、思い通りになっている自分にしか存在価値を見出せません。思い通りにならない自分の在り方に苦悩し、価値がないように思います。「〇〇でなければ本当の自分ではない」という価値観は、自分が信念を持っているようであるが、実は自分で都合よく価値を決めてしまっているのでしょう。その価値に合わせようとして理想の自分に足りないことを埋めようとするが、決して埋まることはありません。
従って、他人を許すことができないばかりか、許せないと思ってしまう自分の価値観をも受け止めることができず、苦悩の連鎖に落ち込んで「時の価値」に気付くこともなく虚しく時を過ごしてしまいます。
では、「時の価値」とは何なのでしょうか。「時の価値」というのは、物理的な時間のことではなく「命の尊さ」を知っているということでしょう。命が尊いからこそ、毎秒の命の有り難さを知り、時が尊いこととなり、「時の価値」が知らされるのです。
親鸞聖人が九歳の春に詠まれた歌を紹介します。
明日ありとおもふ心の仇桜
夜半に嵐の吹かぬものかは
この歌を味わうと、命の尊さを教えられ、「時の価値」を知ることになります。しかし、私は、やはり自分の価値観によってしか生きることができない悲しみを同時に持っています。
私はその自分の価値観に苦しみながら時を過ごしています。仏さまの眼には、私が迷いのままに命終わる救われようのない悲しみの存在に写っているのでしょう。
お経には、
群生を荷負してこれを重担とす (『大経』真宗聖典六頁)
と説かれています。
これは、本当の価値、すなわち「命の尊さ」に気付くことのできない「悲しみの存在」である私を、仏さまが重く背負ってくださるということです。
それは、そのままの自分が本当に尊い存在であることに気付いて欲しいという、仏さまの願いのお言葉であると感じています。
仏さまの願いに出遇うことで、誰をも許すことのできない私を、すでに仏さまは許してくださり、私の苦悩とともに背負ってくだされていることが知らされるのです。
江戸川・本坊 銀田 琢也