今から10年程前の夏、小学4年生の男の子の葬儀を執行させていただきました。その子の死は突然で、放課後、サッカーの練習中に突然崩れるように倒れたそうです。
母親は、自分の子供がまさかこのような病気(くも膜下出血)で亡くなるとは夢にも思っていなかったと言っておりました。スポーツが大好きで優しくて私達夫婦の子として生まれてきてくれて本当に有難うという気持ちであったと、しかも今まで大きな病気も一度もしたことがない我が子が突然いなくなるなんて、何故、信じられない。そのような悲痛な叫びを吐露されました。子供の棺は大人が入れる半分程の大きさしかありません。その小さな棺をまえに、お通夜が執り行われました。式場は学校の友達や父兄たちなど大勢の弔問者で埋まり、外まで溢れていました。
次の日は親族だけの葬儀でした。葬儀終了後、柩車の後をついて私も車で火葬場に向かいました。その途中、柩車は亡くなった子供の通う小学校の門を入りグランドを一周しはじめました。学校の先生、そして生徒達の最後の見送りの場となっていたのです。一同が合掌していました。一人の子供の死を通して、子供達がなにを感じとってくれたのかは解り得ませんが、確かに「死」という無常の道理を感じとってくれたのではないでしょうか。
火葬場に到着すると小さな棺は柩車からおろされ、職員の「最後のお別れです」の言葉で棺が火葬炉のなかに入っていきました。その時です、母親が一緒に炉のなかに入ろうとしたのです。回りのみんなが必至でひきとめ、母親を無理やり棺から引き離しました。愛するわが子の名前を絶叫しつづける母親。私は、これほどまでに母と子の別れが辛く悲しかった葬儀を経験したことはありませんでした。
私達は死する身をいただいて今を生きています。愛する人との別れ、これ程辛く悲しい事はありません。しかし、私達は必ず一人一人死別していかなければならないのです。そのような「愛別離苦」「諸行無常」の道理の中にあって「私達の幸せとはなんだろう」と問われた母親の言葉が耳の底に留まっています。この言葉は、子供を亡くした母親に限らず、世界人類の心の底からの問いではないでしょうか。
私は、深い悲しみや苦しみを通してのみ見えてくる世界があると思います。死んでしまったらおしまいと考えるのではあまりにも寂しすぎます。私はこの母親の言葉を自らの問いとして、仏教に訪ね、悲しみの中から必ず救われていく道を見い出していきたいと思います。
船橋昭和浄苑支坊 黒澤 浄光