素直にとはありのままをありのままそのままに受け取って生きた彼の実感であったのでしょう。私自身、無理をしているなと感じるとき「無理をするな、素直であれ」の言葉がうかびます。
同時に「余道に事(つか)うることを得ざれ」という親鸞聖人の言葉の一節を連想します。余道とは邪道ということです。仏道とは解脱を求める心ですが、余道とは人間の迷いをより一層深めるものです。
「天を拝(はい)することを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祠(まつ)ることを得ざれ、吉良日(きちりょうにち)を視ることを得ざれ」と続きますが、「神々」を人間の欲を満たすための手段、功利的対象として拝む必要はないんだよということです。
しかしながら、大抵は自分の欲望満足のために祈願、祈祷の形をとります。そうである限り「神」を思い通りにしようとする私の心の延長、即ち、恐れであり、おごりであり、ずるさなのでしょう。不純な心で拝まなくとも「諸天」は「善神」として念仏の人を守っておいでなのです。
「鬼神」とは人間の吉凶禍福を左右するものであり人間をおびやかし心を奪う存在です。先祖がたたっているとか、罰をあてられるだとか、そんなことすると悪いことがおこるとか、要は人間を不安におとしいれる不可解なものが「鬼神」なのです。
そういった「鬼神」のことが気になり「鬼神」を祠るということは、私自身が不安であり禍福におびえている証です。 平穏なときには気にもならないことが、何か不測の事態がおこると、たちまちに「鬼神」のことが気になり、「鬼神」を祠ることにより、その不安から逃れようとします。
見えざる「鬼神」におびえ、それを祠るのはわたしの内なる弱さに他ならないのですが、「そのような鬼神につかえる必要はないのに、何故に鬼神につかえるのか、」と悲嘆され苦悩された親鸞聖人の叫びは山頭火の言葉と重なり、安堵します。
「吉良日」を視てはならぬということは、日のよしあしを言ってはいませんかということですが、私たちの毎日は、儒教に端を発する六曜(大安、仏滅、赤口、友引、先勝、先負)等を気にして日を選別するのに右往左往しています。
よいとされる日を選びたい、悪いとされる日をさけたい、そこにも不安に駆られた私自身のこころの弱さがのぞいています。
仏教は「日日是好日」(にちにちこれこうじつ)です。いかなるものにも怯えない、いかなるものもたのまない、ただ正法一つをよりどころにたちあがって歩んでゆける生き方こそ念仏者の道なのです。どう力んでも、計らってみても、縁のもよおしにあえばたちまちに自らの思い計らいはひっくりかえってしまいます。
実際に何が起こるかわからない人生を、その業縁のままに引き受けてゆける一人になっていく、それが仏道を歩む念仏者のあり方、すなはち私一人の「成道」だと感じます。こころ素直に業を果たしていこうとする、この心ほどつよいものはないと深い感銘をもって日々いただいています。
「無理をするな、素直であれ...すべてがこの語句に尽きる、この心構えさえ失わなければ、人は人として十分に生きてゆける」という山頭火の言葉は不器用ながら
しっかりと仏法を携えて生き抜いた彼の生き様が自分と重なり胸に響いています。