経典では、釈尊が衆生を救うため、生涯を八種のすがたで現わされたことが語られる。それは釈尊が人間として誕生する以前、兜率天(とそつてん)という天の世界で教えを説かれるすがたから始まる物語だ。これは、私たちに何を語りかけようとしているのだろうか。
3月の新聞紙上に『80歳の挑戦』との見出しが掲載されていた。今年の5月、世界最高峰・エベレスト登頂を目指すプロスキーヤーで冒険家の三浦雄一郎さんの挑戦のことだ。三浦さんは10年前、70歳でエベレスト登頂を果たし、ギネスに最高年齢の世界記録として認定されている。さらに5年後、75歳で再度登頂に成功し自身の記録を更新した。今回は80歳で3度目の挑戦である。もちろん成功すれば世界記録更新の大偉業だ。しかし、三浦さんが挑戦し続ける意欲は、記録よりも他にあるように思う。それは次の言葉である。
「『生きて帰ってこい』と言われるが、若い頃の『これができれば死んでもいい』という気持ちを奮い起こし、限界ぎりぎりまで頑張りたい」(3月23日付産経新聞)
これほど力強い言葉はあるだろうか。私は昔、「死ぬ気になれば何でもできる」と言われた。しかし、死ぬ気になるのは容易ではなかった。死んだつもりにもなれなかった。私は、死ぬ気になって頑張れと励まされるより、「これで死ねたら本望だ」と思って頑張りたいと思った。
三浦さんは、「これができれば死んでもいい」と言う。その「死んでもいい」と思える条件は「これ」との出遇いである。
私は、だれもが自分にとって確かな「これ」に出遇えたなら「死んでもいい」という気持ちで今を生きることができると思う。更に言うなら、「これ」に出遇わなければ死んでも死にきれないし生きていくことすらできないのである。そのことを釈尊の物語は、私たちの命の歴史として語られているように思う。
天の世界で教えを説かれた釈尊は人間として生まれるため、天から人間の世界を選んで降りてくる。そこには生まれたいという願いと選びが存在する。それは、本当のことに出遇いたいという要求であると私は思う。「本当のことに出遇うために人間として生まれてきた」これが天から降りてきた釈尊の願いであり、人類の願いであると私は受けとめている。三浦さんの言葉もそのように私に聞こえてくる。
エベレスト登頂、80歳の挑戦に向けて三浦さんは言う。「登れれば一番いい。でももし、エベレストが自分の墓標になったとしても、それ以上最高の墓標はないと思っている」(3月17日付同上)私たちの生きる意欲は、「死んでもいい」と思える出遇いの中から得られることではないだろうか。
江戸川本坊 大空