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Home トップページ  >  今月の法語  >  生きている人間はすべて病人である五木寛之

2013年03月
生きている人間はすべて病人である
五木寛之

「私たちはむしろ病んでいるものだ。人間は、すべて病人であって、健康ということは幻想だ。」 (『他力』五木寛之著)
何故、健康は幻想か。私はその問いを「病」と向き合うためのものとして考えたい。
 今日の医療の進歩はめざましい。しかし病気の苦しみが無くなることはない。釈尊は「老・病・死を見て世の非常を悟る」との真実を説かれた。しかし私は漠然と健康でいることが当たり前のように生きている。寧ろ、釋尊の言葉から健康を当たり前にしている私こそが、幻想であったと教えられる。
 私は、大事な肉親が難病にかかれば自分のことのように心配になる。そして、その心配は未来の不安となって私を悩ます。ところが、近代医学のおかげで肉親が難病から治ったならば、私は不安から解消され感激すらするだろう。しかしその感激も「当たり前」にしてしまい、やがて幻となって消えていく。
難病が完治して感激しようがしまいが、私の肉親も私自身も死すべき者であることには変わりはない。このことは頷かざるをえない事実である。ところが私はその事実に頷けないでいる。それは一時的な感激も含めて、自分の都合でものごとを見ているからである。
 このような私の有り様を、「煩悩具足の凡夫」と仏教ではいいあてられている。煩悩は人間の「病」そのものであると思う。それは事実を事実として受けとめられないという「病」が、私自身をつくりあげていると知らされるからである。それは、自分の都合のままに自分を迷わせ、自分の都合のままに他人をも迷わせている。そして私自身が喧嘩や争いを引き起こし、そこに呑み込まれていく。そんな自らの煩悩に病む姿が、仏教によって明らかにされるのである。
 私は知らず知らずのうちに、自己の煩悩によって自己を迷わせていたのだ。
         「生きている人間はすべて病人である」
この言葉は、今を生きる私自身が問われている言葉なのである。病を病と知る。煩悩を煩悩と知る。その素直さにかえる。そこに私はひとすじの光明を見るのである。
  
森林公園昭和浄苑支坊 銀田 琢也

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