昭和20年8月、日本中の人が、空腹でした。白いご飯をお腹いっぱい食べたいという、切なる願いをもっていました。その願望をかなえるべく、一生懸命働きました。安くて良いものをたくさん作って外国に売り、お金を貯めました。やがて、もはや戦後ではないといわれ、街にはたくさんの食べ物があふれるようになりました。テレビをつけると、毎日、美味しいものを紹介する番組が目白押しです。
お腹いっぱい食べられる幸せを願って一生懸命頑張ってきました。ところが今では、美味しいものを食べたいという願望が叶っても、一時の幸せを味わうだけで、自分の人生まで満足ということにはなっていません。それは、自分の腹をふくらませて満足するだけの欲望でしかなかったからです。ひとつの欲が満たされると、またさらに大きな欲が、次々と生み出されてきます。それには、もっともっと、たくさんのお金がいります。また人に勝るように、能力を高めていく必要があります。欲は、ますます増長され、いかりはらだち、そねみ、ねたみの心となり、自分を苦しめていきます。
脚本家の山田太一さんが、『月日の残像』という著書の中で、渥美 清さんのこのような言葉を紹介しています。
「うまいもんがあると聞くと、探してでも食いに行くなんて、なんか、品がないよなぁ。」
渥美さんは、食事ってものは、出されたものを黙って食べて一汁一菜で十分であり、食べられることに感謝も満足もすることなく、探しまわってでも、もっと美味しいものはないかとむさぼるのは、下品であると、言っているのだと思います。
お釈迦さまは、「少欲知足にして、染(むさぼり)・恚(いかり)・痴(おろかさ)なし。」と、おっしゃっています。少欲で足ることを知れば、むさぼることもなく、悩み、苦しみ、怒りもないというのです。
本当の幸せとはなにか。悔いのない人生とはどういうことなのかという探求は、こうした「少欲知足」というお言葉にふれ、下品な生き方をしている自分自身のあり方を知らされるところから、はじまるのだと思います。
森林支坊・丸山 亮