井村氏は若くして肺癌で亡くなられた医師です。最初は足に腫瘍があり転移を防ぐため片足を切断し更に肺に腫瘍(しゅよう)が転移しました。そして闘病のうえ昭和五十四年、三十一歳で亡くなられました。
井村氏は何も出来なくなった身体で死を目前にすると生きていることそのものが問い返され、生きていることが当たり前でなくて、なんて素晴らしいことなのだろうと思うようになりました。だから足があればどこにでも行けたり、手があればなんでも取れたりと日常の様々な動きをしている人々を見ただけで輝いて見える。しかし私はどうでしょう?日常生活の動作はできることが当たり前であり、本当は当たり前ではないのだと頭で理解しても喜べない。 それ以上の自己中心な喜びを求めてふらふらする。そして井村氏は教えてくれています。
「その喜びを知っている人は、それを(日常生活動作)をなくした人達だけ、何故でしょう?当たり前」。
私は何に喜びを求めてきたのか?自分可愛さで、自分の欲望ばかり満たされることに喜びを求めてきました。だから自分のことしか考えられなく他人を遠ざけ自らを孤独化していました。「自分のことしか考えてない」とよく色々な人から私は言われて傷ついたこともありました。痛い言葉ですけど認めるしかないのでしょう。しかし痛い言葉ですが逆に「家族や友達がいることに喜びを持ち仲良くしていけるようなことを築いて行こう」ということをも教えてくれる言葉なのかとも感じています。自分のことしか考えてない私であれば孤独にも耐えられない私でもある。そんな矛盾している私は井村氏の言葉を通し家族や友達がいることのすばらしさや喜びをゆっくりと考え直さなければならないと思うようになりました。自分を孤独化して来た悲しみを知りながら・・。最後に井村氏の詩を紹介します。
『あたりまえ』
あたりまえ こんなすばらしいことを、みんななぜよろこばないのでしょう。
あたりまえであることを。お父さんがいる。お母さんがいる。
手が二本あって、足が二本ある。行きたいところへ自分で歩いていける。
手を伸ばせばなんでもとれる。
音が聞こえて声がでる。
こんなしあわせあるでしょうか。
しかし だれもそれをよろこばない。
江戸川本坊 銀田 琢也