おなじこころにてありけり
親鸞聖人
親鸞聖人のお弟子である唯円が、師にたずねました。
「念仏しても天に踊り地に踊るような歓喜のこころがありません。またいそぎ浄土に参りたいとも思いません。いったいどうしたらよいでしょうか。」
唯円のこの悩みの言葉が、今の私の生活の全てであると感じます。
仏法に触れては、まことの信心に、まことのお念仏に出遇えたとその都度歓喜した気になります。
ところがそれに慣れてくると、お念仏に張り合いがなくなってくる。毎日手を合わせてはいるけどもなんにもかわらないお念仏。作法、義務のお念仏。お念仏がため息になる。自分の出遇えたお念仏はこんなものではなかったはず。歓喜しないのは私の意志が弱く、その意義に無知であるからだ。もっと経典を学ばなければいけない。もっと一心に、雑念を消して心底お念仏もうさなければいけないと、奮起する心が起こりはするけれども継続していかない。いよいよ自分はお念仏をすることに向いていないという根性に陥ります。
「いったいどうしたらよいでしょうか」となります。
唯円の悩みに対し親鸞聖人は
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。」と、親鸞聖人はその御身に引きかけて、唯円房、あなたもこの親鸞とおなじ心であったかと、心で答えてくださいました。
そのお心が唯円を通じて、私の身に響いて参ります。お念仏しても喜ぶ心がない、奮起する心も続かない、自分はお念仏をすることに向いていないという根性の私を、その煩悩の事実そのままに「よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり」(真宗聖典六二九頁)と、ハッキリと教えてくださいました。
親鸞聖人のお心に触れ、喜ぶべき心がおろそかな私が私のままに、お念仏がため息になる煩悩具足の私だからこそ、仏さまが呼びかけてくださるのだと教えられています。
生涯聞法を通して、私の智慧や裁量を超えた、絶対無限の阿弥陀仏の本願にたちかえらせていただきたいと思います。
森林公園支坊 山岡 恵悟