暁烏敏師は明治十年に石川県松任市の明達寺(みょうたつじ)に生まれ、清澤満之師(きよざわまんし)の門下生となり、師がご逝去された後、人生の殆どを各地に出向かれて講和をされた念仏者である。(以降敬称略)
親鸞聖人は『教(きょう)行(ぎょう)信証(しんしょう)』の教巻に、念仏の教えの要が「二種(にしゅ)の回向(えこう)」であると言い切っておられる。その一つは往相(おうそう)、二つには還相(げんそう)である。往相とは凡夫が浄土に生まれ行く相であり、還相とは一度浄土へ往生したものが、又この世界に還って他の衆生(しゅじょう)を救済する事である。その事を暁烏敏は恩師清澤満之をもって和讃に詠まれている。
久遠(くおん)実(じつ)成(じょう)阿弥陀仏(あみだぶつ)
清澤(きよざわ)先生(せんせい)と示(しめ)してぞ
真実(しんじつ)信心(しんじん)すすめしめ
定聚(じょうじゅ)の数(かず)にいらしむる
この和讃を読みと暁烏敏は清澤満之の事を、久遠実成の阿弥陀仏が清澤先生となられ示現(じげん)されて、お育て下さったと師を拝まれている。示現とは仏・菩薩が衆生を救うために種々の姿に身を変えてこの世に出現する事を言う。これが還相と言う事であります。清澤満之と暁烏敏との出会いは、決して感動的なものではなかった。それは、暁烏敏が金澤の中学校から京都大谷尋常中学校三年に編入された時に始まる。暁烏敏は語る。「ちょうど学期の始めで、先生が一人づつ教室にきて、明日からの授業のやり方の話してゆかれる。すると教室の入り口に、丈の短い、色の黒い、布衣をきた一人の汚い坊さんが立っている。この番僧坊主なにしに来たかと思っていると、のこのこと教室に入ってきて、頭陀袋の中からスマイルズの『自助論』を出して、「明日これだけ読んで来い」という。驚いて、「あんな坊主に英語がよめるのか」ときくと、「あれが有名なる徳永満之先生だ」ということだった。(暁烏敏全集第十九巻・徳永姓は旧姓)清澤満之とは、文久三年(一八六三年)名古屋の藩主の家に生まれ、大谷派の僧侶となり、愛知県の西方寺の住職に就かれました。又、時の宗門改革(教学)に全力を尽くされ、大谷大学の初代学鑑(学長)を勤められた学匠であります。そして浩々洞(こうごうどう)と言う私塾を設立し、精神主義(清澤満之の人生に処する態度)を世に広められました。この二人の出会いは明治二十六年、清澤満之三十一歳、暁烏敏十六歳の時であったと暁烏敏は言われています。暁烏敏はこの出会いが縁で後に浩々洞に入洞され、清澤満之が四十一歳でご逝去されるまで日々お側にいてお教えを受けた。そして清澤満之を生涯の師とされて憶念されて行かれた。
私どもにも様々な出会いがある。しかし自分自身の心が翻されるような人との出会いは遇いがたい。親鸞聖人は出会いを『値遇(ちぐう)』と言われた。教行信証の総序には、弥陀の本願との出会いを「値(もうあ)いがたく」と言い、釈尊の教え、インド・中国・日本の七人の高僧方の著述に、出会った事を「遇(あ)いがたく」と使い分けている。即ち、久遠より如来が私にはたらき続けているはたらきに、会いながら会えていなかった私が、やっと仏縁によって「遇う」事が出来た慶びを『値遇』と表現されている。値遇できなかった原因は我執にある。師はその我執の殻を私自らが内から破るように育てて下さる。師が外から破るのではない。師の言葉を通して如来の本願が私の中に宿る。如来の信(まこと)の心が私に宿るのです。そして一心に如来のお心に向かって行く力が湧出する。その力が内から殻を破るのである。破れてそこに新しい自己の芽が出る。それが本当の自己である。そして如来に向かって歩みが始まる。それが往相と言う事であります。我々が如来を証明するのではない。如来が我々を証明して下さる。如来が我々の前に来て存在を証明して下さるのである。暁烏敏は語る。「十万億佛土の向こうに行かにゃ会えないと思っておった仏さんも極楽も、南無阿弥陀仏を称える信心の中に味合わして貰えるのです。信心というのは、仏さんのお心が私の上に具わるのです。」と。
船橋昭和浄苑 加藤 順節