「やり直しのきかぬ 人生であるが 見直すことが できる」 金子 大栄
金子大栄師(1881年~1976年)は、日本の明治~昭和期に活躍した仏教思想家であり、真宗大谷派の僧侶です。私たちの日常生活を振り返ると、「私は私の力で生きてきたんだ。誰のおかげでもない」と勝手に思い込んでいる人がいます。
仏教を自分を飾る教養の一つとして眺めていた人が、真実の教えである御法にふれた時、外に向かっていた眼が内側に向けられ、これまで自信に充ちていた生活が一転してぐらぐらと揺れ動くことでしょう。気づいてみれば、腹を立てている時でも、悲しみに打ちひしがれている時でも、眠っている時でも、私の心臓が休むことなく脈打っていることに気がつくでしょう。私が忘れていても、体は規則正しく呼吸し、私の命を支えてくださっているのです。生きているということは、決して私の力ではありません。病気が治ったことも、健康でいられることも、すべて自分の力ではないのです。結局は、生かされている尊い我が身なのです。よくよく胸に手をあてて考えてみれば、すべては「おかげさま」であることに気づくでしょう。このことがわからなければ、病気になったことや仕事がうまくいかないことを他人や世の中のせいにして、責任転嫁するしかありません。しかし、そこからは何も生まれず、学ぶこともできません。憎しみや怨みの感情でますます暗い心に沈むだけなのです。
親鸞聖人は、その認めたくない現実を無理なく引き受けていける道をあきらかにされているのです。「ただ南無阿弥陀仏ととなえよ」と。しかし、それは決して腹立たしい気持ちや悲しみを念仏して消し去る道ではありません。何ともならないままに、傷つくことを恐れず、ただ念仏を称え、生かされて生き抜いてきた人生だったのでしょう。ここに、「やり直しのきかぬ人生であるが、見直すことができる」といただける世界が開けるのではないでしょうか。いつでも自分をかっこよく見せるために言い訳をしたり、愚痴をこぼさずにはいられない私が、そのまま南無阿弥陀仏ととなえて生きていけるのです。
諸行無常の道理の中に生かされながら、かけがえのない尊い命を、生涯聞法に身を委ね、人生完成に向けた歩みをしてまいりたいと思うのです。
船橋昭和浄苑支坊 黒澤 浄光