はじめてこの言葉とであったのは京都の専修学院での院長講義であったと思う。最初に聞いたときには?マーク。講義で解説されてもいまいち身に落ちなかったことを記憶している。愚者=愚か者(できない人)、往生=死ぬことという概念が出来上がっていたからである。
この言葉は、親鸞聖人のお師匠さんである法然上人の言葉である。法然上人は自他ともに認める秀才であった。ただ、謙遜して言った言葉であるか?そうではないだろう。なぜなら生涯法然上人の一弟子を貫いた親鸞聖人が、88歳の時に回顧録にこの言葉をしるしておられるからだ。一弟子が晩年に至ってなおこの言葉が自分の心にとどまっているということは、この言葉は法然上人の教えそのものであると考えられる。そして、親鸞聖人自身は愚禿釋親鸞の名乗りをあげている。
では愚かとはどういうことか。私たちは、自分の事は自分が一番よく知っていると思っているが、自分自身の事実を知らされて初めて気付くことがある。私たちはあらゆる感情をぶつけ合い、右往左往しながら生活している。怒っているときは、自分が一番正しく周りが思い通りにならないことに憤り、笑っているときは絶好調で有頂天、泣いているときは自分が一番不幸だと思う。生きる私たちを掘り下げてみれば、「私が…」「あなたが…」「私だけが…」といった我執(思い)をお互い突き合わせて生きている事に気付く。我執をけして捨て去れない自分を、法然上人は愚かといったのである。
では、そのような私たちがどのように救われるのか。今生きている中で救われていくには我執に囚われている自分に気づき、心の中の願いに心を開いていく他に道はないのではなかろうか。そこにこそ、我執を持ったままの私たちが安心して生きていける(救われる)道が開かれるのではないかと思う。
仏教は、生きる事の根源たる苦悩に真正面から向き合う。たとえ普段執着する心から離れられない私たちでも、苦悩する正体を知ること、向き合う事は大事なことである。仏法を聴聞するということは、仏さまから自分自身を教えてもらうということに他ならない。まず自分の本当の姿を教えてもらうということが大事である。そして、安心して愚者であるといえるところに、本当の救いの要があるのだ。
船橋昭和浄苑 溝邊 貴彦