生まれたから死ぬのだ、とお釈迦さまは仰せになっております。生まれたという因があるから死という果を得るのであって、病気、あるいは怪我も縁であるのです。生まれたということの裏には、死ということが紙の表裏の如くぴったりとくっついて絶対に離れないと仰せになっております。
四門出遊ということが釈尊伝の中で言われています。深い悩みを抱えてシッダルタ太子が、次々と四つの門を出られた物語です。先ず東門をでようとして出会われたのが老人です。
「あれは何者か。」
「はい、老人でございます。」
「私もあのようになるのか。」
「はい、長生きをしたならば、否応なしにあのようになります。」
年をとれば老人になることは知っていても、自分があのようになることを始めて会得されたのです。私の問題として受けとることが仏の教えのこころです。その時、シッダルタ太子は若さの裏には老ということがついていることをしらされたのです。南門で病人に出会われ、健康の裏には病気ということがついていて、健康のはかなさを、西門では死者に会われて、生の裏には必ず死のあることを知らされたのです。そして、北門では出家者に出会われ、この生死の問題を解決するため、自らも出家の道を選ばれたのです。
「身自当之 無有代者(身、自らこれを当(う)くるに、たれも代わる者なし)」
『太無量寿経』
と、言われています。
「人間のあだなる体を案ずるに、生あるものはかならず死に帰し、さかんなるものはついにおとろうるならいなり。」『御文三の四』
そうゆう意味では死は必然で、生こそ偶然なのです。私たちはいつも思い違いをしておりませんか、生ほど確かなものはない、死こそ偶然であるとおもっていませんか?生こそ偶然なのです。すべてのもの、人達がそのままに、愚かなものは愚かなりに、無能なものは無能なりに、本願念仏を明らかにする材料(人生には無駄な事が、一つも無かった)にならせて頂いているのです。そこに限りないありがたさを感じとられ死んでいけるとは、
「朝に道をきかば、タべに死すとも可なり。」
と言われた孔子のように、遇いがたくして遇い、聞きがたくして聞きえた喜びによってしずかに死んでいけるという喜びです。
「わたしも 死していかねば ならぬぞよ」
死んでいけるということが言えるためには、本当に生きることができたと言うことがなければなりません。「生活」という言葉があります。どちらも「いきる」という意味をもっていますが、「生」はむしろ「うまれる」ということであり、「活」は「くらし」という意味なのです。それは、どう生きたか、どう生きていくか、本当に本願念仏の教えに出逢えた生き方であったか、ということが問われ続けられるものだと思うのです。
船橋昭和浄苑 黒澤 浄光