人身受け難し、いますでに受く
『三帰依文』
表題は『三帰依文』における冒頭の言葉です。『三帰依文』とは、宗派を問わず仏教徒が大切にしております、仏さまを、仏法を依り所とし、そして共に教えを聴く人々・場所を大切にして生きていきますという誓いの文です。
「人身受け難し、いますでに受く」を現代語に直訳すると、「人として生まれることはきわめて得がたいことであるが、今すでにその身をいただいている」となります。人として生まれてきたことの有難さ、そして今その身をいただいて生きている喜びが表現されています。
しかし現代社会に生きる私どもは、本当に「人として生まれた」ことを喜べているでしょうか。
日本では多くの方が自ら命を絶たれています。またアメリカでは、経済学者アンガス・ディートンとアン・ケースが、白人労働者階級の平均寿命が短くなっていることを指摘し、人生の展望や希望を失った人々が増えている現象を「絶望死」と名づけました。
私はこの言葉が、現代社会に生きる私たちの現実を的確に表していると思います。最初は希望を持って生きていても、経済状況や人間関係、老いや病の中で希望を見失い、やがて絶望してしまう。
ただ大切なのは、「望みが絶たれる」と書くように、絶望にはそこに先立つ願いがあるということです。
願いがないところに絶望もありません。人間として尊重され、幸せに健やかに生きたいという願いがあるからこそ、それを見失った時に死にたくなるのです。絶望死は「死にたい」という叫びではなく、「生きたい」という叫びなのです。
そして私自身もまた、そのような思いに惑う者の一人です。共に暮らす人や敬意をもって関わってくださる友人がいることで、今のところ希望を持って生きていますが、それも安定したものではなく、常に一喜一憂を繰り返しています。
こう考えると、「人身受け難し、いますでに受く」というのは、まさに仏さまの言葉なのだと実感します。受け難き身をいきいきと生きたいと願う心は人間の欲望ではなく仏さまの願いであり、この私こそが仏さまから願われている身であったのだと頷くとき、南無阿弥陀仏の名号が私のこの身から湧き起こってくるのです。
それが、どれほど絶望しようとも最後まで生き抜こうとする揺るぎない希望になります。そういう「願われた身」としての人間の名告りが「人身受け難し、いますでに受く」という『三帰依文』の冒頭でなされているのだといただきながら、これからも仏法を聴聞していきたいと思います。
江戸川本坊 門井 良

