立派な人にならなくていい。
どうか、感じの良い人になってください。
『三年B組金八先生』
この言葉は、ドラマ『三年B組金八先生』の中で、金八先生が卒業式で生徒たちへ送った言葉です。
世間的な地位や能力の高さだけを追い求め、他者を見下したり、思いやりを失ったりする人間になってはいけない。むしろ、他者を思いやる心や、周囲とあたたかく関わる人間的な魅力こそが大切である――そのような願いが、この言葉には込められているように私は感じます。
「感じの良さ」とは、単なる愛想の良さではありません。相手の立場を思いやり、ともに支え合い、豊かに生きていくための大切な力であり、人としての財産ではないでしょうか。
金八先生を演じた武田鉄矢さんは、真宗の影響を受けた家庭で育ち、幼い頃から念仏を身近に聞く環境にあったといわれます。齢を重ね、別れや世の苦しみに触れる中で、親鸞聖人がそばにいてくださるように感じるようになったとも語られています。
さて、仏教において「立派な人」とは、どのような人をいうのでしょうか。仏教では、成功した人、強い人、能力の高い人だけを理想の姿とはしません。大乗仏教では、自分だけが救われればよいという生き方を超え、他者の幸せを願い、利他のために歩む菩薩の姿が大切にされています。
また、真宗においては、「立派な人」になろうとする心の奥に、名誉や利益を求める思いが潜んでいないかが問われます。『歎異抄』第十二条には、次のように記されています。
「あやまって、学問して、名聞利養のおもいに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんという証文もそうろうぞかし。」
これは、誤った動機で学問をすれば、名聞利養の思いにとどまってしまう、という意味です。「名聞」とは名誉を求める心、「利養」とは利益を得て自分を養おうとする心を指します。
この教えは、現代の私たちにとっても、「何のために学ぶのか」「何のために努力するのか」という問いにつながるものではないでしょうか。
それでは、「感じの良い人」とは、どのような人なのでしょうか。
親鸞聖人のお姿にその一例を見るならば、阿弥陀仏の本願に出遇い、慈悲の心に照らされながら、悲しみや苦しみの中にある人々とともに歩まれた方といえます。次のような言葉が親鸞聖人の遺言として伝承されています。
「一人居て喜ばば二人と思うべし、二人居て喜ばば三人と思うべし、その一人は親鸞なり」
※『御臨末の御書』
一人であっても、念仏の喜びをいただく時、そこには親鸞聖人がともにいてくださる。二人で喜ぶ時にも、その中に親鸞聖人がいてくださる。そのような、時を超えたあたたかなつながりが、この言葉には感じられます。
私自身を振り返れば、決して立派な人間ではなく、いつも感じの良い人でいられるわけでもありません。むしろ、自分中心の思いや、相手を思いやれない心に気づかされることが多くあります。
だからこそ、聞法を重ねる中で、自分の愚かさに気づき、本当の自分に出遇わせていただきたいと思います。そして、立派に見える人ではなく、周りの人をあたたかく包むことのできる「感じの良い人」に、少しでも近づいていきたいと思います。
(森林昭和浄苑支坊 木津開明)

