「うまくいかないな」が面白いわけで。 所ジョージ
「ネット使って便利になったから、みんな確実に結果の出るものしか手を出さなくなってるじゃないですか。前の見えないものはやらないよね。
でも「うまくいかないな」が面白いわけで。うまくいかないから枝を出すし、そこに違うめっけもんがある。」
現代社会はネットがなければ成り立たない時代となってしまったようです。私は今年四十七歳となりますが、まさにこの社会が大きく変わる過渡期を生きてきたように思います。小学生のころは携帯電話もなく、電話番号をいくつも暗記していた記憶があります。高校生の頃にはポケベル、そこから携帯、メール、インターネット、スマートフォン……そして今はAIの時代となりました。あふれる情報に手軽にアクセスでき、人工知能が人間の脳の代わりをする時代です。正直今の技術進化にはついていけない所もあります。
今、大学では膨大な情報から手軽に答えを得られることが当たり前となり、もはや答えをも生成してくれることが問題となっているそうです。一連のこの流れは人間が便利を追い求めた結果ですが、同時に人間の不完全さがより鮮明になってきているように思います。
不完全な我らであるからこそ、そこに容易に知りえぬ人としての機微があり、それが本来の人間らしさだと思います。所さんの言葉はまさにこの人間らしさにフォーカスされています。正解を求める過程において失敗から創意工夫が生まれたり、新しい出遇いがあって、そこから思いも寄らぬ結果に繋がったりすることがあります。不完全なものであるからこその素晴らしさがあるのではないでしょうか。「うまくいかないな」は「思い通りにならないな」ということ。私たちは思い通りにならないところに悩むわけですが、思い通りにならないところにこそ、人間本来の味わいがあるともいえます。
本来私たちの人生は、因縁果、諸行無常の道理の中で絶えずうつろいゆくもののはずです。最初から結果が分かっていることなど本来はないはずですが、何かネットにあふれる情報や、回答には無条件で正解であるような錯覚をしてしまうところに現代社会の危うさを感じます。
親鸞聖人は「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(『歎異抄』より)ととらえられました。
真の真実とは何か、二十九歳の時に法然上人から受け取った「南無阿弥陀仏」の念仏は、親鸞聖人にとって迷いの中に生きる自分の姿を照らし、生きる道筋を指し示してくれる言葉でした。だからこそ、ただ念仏のみが、自分の人生にとって「まこと」の言葉であると言うのです。
不確かな情報を盲信しがちな私たちにとって、人間本来の「うまくいかないな」を大切にすることが、今必要なのではないかと思います。うまくいかないところに本来の自分の姿が照らし出され、まじめに思考がはじまり、その中で求める心が生まれて出遇いや気づきがあるのです。
これこそ命が生きる力、人生の醍醐味ではないでしょうか。
森林公園支坊 溝邊 貴彦