人間、誰しもがあらゆる出来事やモノに問いを持つと思います。その問いは人によってそれぞれ違うでしょう。それが苦しみであったり、喜びであったり。そもそも簡単に何にでも納得できて問いを持たぬ人生なんてつまらなくて仕方ないのではないでしょうか。
私自身、問いが苦しみ、悩みの原因の一つではあります。しかし問いを持ち悩んでいるからこそ、簡単に頷けないからこそその出来事に真向かいに接することが出来るのではないでしょうか。
私は僧侶ですので、法要に出仕させて頂いております。お勤めが終わり、ご家族の方とお話をしていると、
「若いのにご立派で」とか「良いお経有難うございました」などと言われることがあります。これは大変有難いことなのですが、私はこの事が苦痛であり、一つの悩みでもあります。
果たして私の何が立派なのでしょうか。私の何が有難いのでしょうか。そもそも良いお経って何なのでしょうか。そういった疑問が溢れます。私が僧侶だから有難いのでしょうか。私という人間が有難いなんてどう考えても考え難いのできっと僧侶としての私、もっと言うと黒いお衣が有難いのではないでしょうか。
私が證大寺にお世話になり3年経ちました。お手伝いさせてもらった当初は私自身チャラチャラした人間と自負しておりますので「自分はこれからお坊さんらしく頑張ろう」と思いました。当初の自分からしてみると今の法要後の「若いのにご立派で」とか「良いお勤め有難うございます」というお言葉を望んでいたのかもしれませんが、今の私には苦痛なのです。それは私自身を見られていないという感覚なのかも知れません。
私が真宗の僧侶として生きているという事実が問いかけてきます。何も立派でもなくどこにでもいる人間の私と僧侶として存在している私との葛藤が生まれます。そんな葛藤が生まれ2年くらい経ちますが、去年ある出来事があり、少し心が楽になりました。
私は石川県珠洲市という能登半島先端の寺の生まれです。去年子供の頃から面倒を見て貰っているお婆さんがお亡くなりになられました。そのお婆さんは私が子供の頃から「おしんぼっちゃん。私が死んだら葬式お勤めしてな」と会うたびに言っていました。私も子供でしたので「うん。いいよ」程度の返事をしていました。そして去年お婆さんはお亡くなりになられました。私は子供の頃からの約束を守る為に葬儀に出仕しました。その際に思ったのですが、私はこの人に育ててもらった。寺の息子として生まれたというだけで、将来僧侶になるかもわからない私をひとえに信じてくださったんだと思いました。なんとも有難く本当の自分を見てくださったような気がしたのです。僧侶として生きている事実、この事が私にとって本当に大切なことなんだと感じました。
この先も僧侶として生きていく私に疑問は消えることがないでしょう。しかし、だからこそ生まれる大切な疑問があると思います。
森林公園昭和浄苑 塚本 協