ある町外れに、書画陶器が並ぶ小さな店がある。入り口の引き戸を開けると、白髪白髭(はくはつしらひげ)のおじいさんが笑顔で迎えてくれる。町でその人は「フージイ(風爺)」と呼ばれている。時折(ときおり)私はこの店を訪(たず)ねていた。
店の壁には、たくさんの書が所狭(ところせま)しと器用に掛けられていた。フージイが書いたものだ。朝、店を開ける。夕方になると店は開(ひら)いているが、フージイは筆を持ち、紙に向かう。この時間訪ねても笑顔を見せることは無い。
三年後、私はこの町を離れることにした。別れを告げるため店に入った。しかし、何となく言い出せず、ぼんやりと壁に掛かった書を眺(なが)めていた。ふと「随處作主」と書かれた色紙を見つけた。けれども私には、この文字が読めなかった。そこで、少しためらいながらフージイに声をかけた。
「なんて読むんですか」
「ずいしょさくしゅ」
「どんな意味なの」
「うーん、あんたは、あんたのまま、やっていけばいい。みたいなものかな」
「ふーん、これちょうだい」
「高いよ」
「いくら」
「・・・持ってけ」
「えっ」
あれから、もう十年になろうとしている。三年前にフージイは亡くなったと聞いた。そして今私の後ろに、あの色紙は造作(ぞうさ)なく掛けられている。
いったい、この「随處作主(ずいしょさくしゅ)」は誰の言葉だったのか。フージイの創作したものだろうと、私は勝手に考えていた。気になって調べてみると、臨済宗の祖、臨済(りんざい)禅師(ぜんじ)の言葉であった。
「随處作主(ずいしょさくしゅ) 立処皆真(りっしょみなしん)」(何時(いつ)、如何(いか)なる場所、立場、場面においても他の人に依存せず、主従関係を求める事無く、独個(どっこ)独立(どくりつ)することが大事なのである。そうあってこそ、はじめて、いつでも、どこにいても自然に周囲と調和して、真の姿、真の関係、真の世界が明らかとなる。【意訳】)
いつかフージイはこんな事を言った。
「自分勝手とわがままは違う。自分勝手は周りの人を巻き込んで迷惑をかける。
わがままは、我がまま。わたしそのまま、ということ。
だけど、私そのままに生きる事は、本当に難しいものだ。」
江戸川本坊 谷山周次