栗城史多さんは世界を股にかける日本の若手登山家である。この言葉はイギリスBBCのドキュメンタリー映画『ライフ―いのちを繋ぐ物語―』の特別インタビューでの言葉である。この映画は特殊なカメラと技術を用いて動物の視点にたって捉えた画期的な映画である。狩る、逃げる、生み、育てる。その映像からは、これまであまり知られなかった動物の命の営みが、等身大のこととして受け手に伝わる。
私は学生時代山の中で過ごす機会が多く、何日もテントの中で寝起きする生活をしていた。朝日が昇ると目が覚め、日が沈めばヘッドランプとランタンだけ、必然的に就寝する。町の騒音や他の人の話し声など皆無であるから、風の音や虫の鳴き声や葉っぱが揺れる音、遠くからの滝の音等々、やたらとうるさい。そういった中に身を置くと、普段気にもしない命が身近に感じられ、また自分の命をふり返らざるを得ない。狩りをし、身を守る為に身体自体を変化させ、子を作り、子を守るために命を張る。自然の中で生かされ生きている。数多の命もまた自然を構成する一部なのだ。そして、自分も自然の中で生かされ生きていることに気付く。このシンプルな自然の中での命のつながりを、私達人間はいつの間にか忘れてしまっていたのではないだろうか。
去年はまさに命と命のつながりを再確認する一年だったと思う。赤の他人が手と手を取り合い、損得抜きで助け合った。そして、私達人間も抗うことの出来ない自然の中で生かされているということを、まざまざと実感したのではないだろうか。人間の命だけがけして特別のものではないということを。
今、首都圏では孤独死が問題になっている。孤独ということは、他とのつながりが無いということだ。つながりを否定する社会の構造と、孤高の存在として己を確立することこそ、最良とする風潮。生かされているということがむずがゆく、俺は生きている!という傲慢が当たり前になっている自分に気付く。私が何気なく潰す蚊、ゴキブリ…害虫害獣と呼ばれる命は、誰にとって害なのか。
これは自我(われ)という厄介な問題だ。仏教は、この自我を徹底的に問うていく教えだ。自我は人間の苦悩の根源であり、よく命のつながりを忘却させる。今、私たちは自分自身の問題として、自我に立ち返り、命のつながりとは何か、生かされているとはどういうことか、考えなければならないのではないだろうか。この自我を肯定する社会の歪みが隠しきれなくなった今こそ…。
江戸川本坊 溝邊 貴彦