私たちはお互いに自分のいのちは自分のもの、俺が自分の人生をどう生きようと勝手ではないか、こういうことを平気で言うわけでございます。けれども果たして、私のいのちは私のものなのか、私のものなら私の自由に出来る筈でございます。しかしながらよくよく考えてみますと、私のいのちは少しも私の自由には出来なかったし、自由に出来ていない。生まれて来る時も自由じゃなかったし、死ぬ時も恐らく自由じゃないでしょう。
先だって知り合いのお婆さんが来まして色々と世間話しなどお話しをしました。昨年お爺さんを亡くされており、「この年になると寂しいよ、私も、もう八十歳過ぎて生きる気力が無くなってしまってね」と仰っていました。結局最後にはコロッと死にたいという話になるんですね。その気持はよく判ることです。しかし現実は、なかなかそうはいきません。
自殺も出来るといわれるかも知れませんが、自殺を決断したとしても、縁が揃いませんと実行したって未遂に終わることなのです。いつか新聞で読んだ記憶がありますが、自殺しようと電車に飛び込んだら一寸早かったものですから、線路の向こう側に行ってしまってその後で電車が通ったそうです。決心さえしたら実現出来るかというとなかなかそうはいかない。縁が整わなくては自殺もできない。
生まれて来る時も自由じゃないし、死ぬ時も自由じゃない。病気になりたくて病気になる人はどこにもおりません。しかしながら現実には病気をした経験の無い人がおりますでしょうか?怪我をしたくて怪我をする人がおりますでしょうか?皆様も実際に風邪をひいてしまった、或いは手術までした経験の方もいると思うのです。何故、自分の思い通りにならないのでしょうか。怪我も同じことが言えるのではないでしょうか。自分の心も思い通りにならず、約束さえまもれないのではないでしょうか?
明日何々をしようと自分で約束をします。しかし、当日になりますとどうでしょう、「まあ、いいか明日にしよう」と言う事がございませんでしょうか。私たちは自分の体の事も、心さえも自由にコントロールできないものなのです。
ともすれば苦しみを無くして貰うために信心するということがあります。しかし、信心しましても苦しみは決してなくならないのです。悲しみも消えやしない。信心によって苦しみがなくなったり、悲しみが消えたりはしないのです。少なくとも私が聞かせて頂いている真実の念仏は、念仏を称えたら苦しみが無くなるとも、悲しみが消えるとも教えて下さってはいない。ただ苦しみや悲しみが浄められる。信心において浄められると思うのです。
私達は、この無常なる世界に尊い命を頂戴し、今この社会に生かされておるのです。真実の教え、本願念仏の願いを共に学んでいきたいものであります。
黒澤 浄光