「 他力と言うは、如来の本願力なり」
(『真宗聖典』初版P193・二版P213)
これは他力を示す言葉です。私は、この言葉の深い意味を実感する経験をしました。それは、先月中旬に人生で初めて全身麻酔を伴う手術を受けたことです。事前の検査入院から数日間の出来事は、まさに「命への感謝」を感じる貴重な体験となりました。
これまで大きな怪我もなく、病院のベッドとは無縁の生活を送っていた私ですが、今年の三月にお腹の腸に異変が見つかりました。検査結果や手術の説明を聞くときには、正直なところ信じられない気持ちや、どこか他人事のような感覚がありました。医師の見解では、手術の失敗による死亡確率は0.5%とのことでしたので、あまり気にしていませんでしたが、手術日が近づくにつれて時折恐怖を感じることが増えました。これまでの暴飲暴食や食生活の乱れを反省しました。
手術日の前日、麻酔科の医師から説明があり、全身麻酔にはいくつかの種類があり、手術の場所によって異なることを聞きました。私の手術では心臓は動いているものの呼吸は止まり、機械による呼吸になると説明されました。この説明を受けたとき、恐怖がよぎりました。その時、私の中から聞こえてきたのが、蓮如上人からのお手紙である『御文』の「一つの息、ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて」という臨終の様子が表されたお言葉でした。私のこの身に、無常と儚さを感じさせられたのです。
「他力と言うは、如来の本願力なり」とは、教行信証の行の巻に親鸞聖人が記されたお言葉です。自分の力ではなく、阿弥陀仏の誓願の力によって救われる深い意味を表しています。阿弥陀仏に身を委ねることが他力の大切さであり、阿弥陀仏の慈悲深い本願力が私たちを救うために発願されたもので、他力念仏の大行は、弥陀がすべての人を救うために選ばれた本願に基づく行であると教えられています。
入院中、腸の病気のため、手術日の前日の夜からは食事を一切取れず、点滴による補給でした。腸の手術後、最初に食事をいただいたとき、命への感謝の大切さを感じ「み光のもと、われ今幸いに、この浄き食をうく、いただきます」と思わず口にしました。普段当たり前に食事をいただけていたことに、改めて感謝の気持ちが湧き、心の乱れを取り戻しました。
また、「他力と言うは、如来の本願力なり」と実感したのは、手術が終わり、全身麻酔から意識を取り戻したときでした。最初に目を開いて光を感じた瞬間、手術室の天井から差し込む光を見て、自分が寝台の上にいる状況を思い出しました。初めての手術後であったため、オーバーに感じるかもしれませんが、こんな私でもまだこの世でやるべきことが残っていると純粋に感じました。日常生活の中で多くの方々の恩恵や慈悲に支えられていることにも、大きな愛を感じ、改めて感謝の念があふれました。この時、私は「南無阿弥陀仏」といただいたのです。
證大寺 江戸川本坊 木津賢二