「師を持つ人は 行き詰まりがない」
長谷川耕作
宗教とは、お葬式や法事などの儀礼に止まらず、日々の生活に意味や意義を見出せるようになるかどうかが重要である。宗教を信じることで直ちに状況が好転することはない。しかし宗教を信じることで、与えられた状況に対する態度を選ぶことができるのではないだろうか。
普段の生活では問題がないようでも、思い通りにならないことがあれば、すぐに三悪道、すなわち地獄・餓鬼・畜生のすがたが私の上に現れる。地獄とは、獄という漢字が示すように獣と犬が言を挟んで対峙している状態である。言葉の通じない世界であり、それは相手を理解しない心から生まれる。餓鬼は感謝、満足の無い心、畜生は依存的な在り方である。状況により思い通りにならないと、他者や環境に責任転嫁し、愚痴が出てきてしまう。お釈迦様はこのような三悪道をつくりだす私たちの在り方を悲しまれ、その本因は、自分が正しいと思い込む邪智邪見による愚痴あると説かれている。
冒頭に、「師を持つ人は行き詰まりがない」と記したが、師を師たらしめるものは弟子であり、弟子が師を見出すのである。師が指摘したことを真に受けるところに、師弟は生まれるのである。そのように考えると、師を持つことは、弟子としての自分を見出すことであり、常に教わる立場に立つということである。
縛るもの失くして自ら縛られ、絶望をしている我々の縄をほどくために、我々は師を持たねばならないのでないか。師を持つ心は、頭を下げて聞くという態度である。それは師によって明らかにされた愚者の自覚である。その一念に起こる心境は、周りの環境によって壊されることはない、宗教によって与えられた一つの信念である。宗教とは、儀礼や祈祷に止まるものではなく、私たちの生活に関わる、最も私たちの深いところにある心の向き方を教えてくれるものである。
曽我量深は、「無知無能の私を失望もせず、愚痴をいわず、無知無能のままに人生を勇往邁進してゆける。その力の根本が如来である」と述べている。有限なものは、無限に触れなければ、自分が有限であることに気付くことができない。有限なる自分が明らかになり、そこに安心して誤魔化すことなく生きていく在り方が明らかとなる。それは師を持つことなしには得られない心境の転換である。
江戸川本坊・井上城治