「自分が苦しんだところに
他の人も苦しんでいることがわかる」曽我量深
私はこの言葉に共感しました。しかし娑婆ではこのことを忘れてしまうのではないでしょうか。自分の苦労のみに目を奪われ他人を理解できなくなる。そのことに埋没しがちになります。
娑婆とは勘忍土の世界をあらわします。そのような苦しみに耐え忍んでいかねばならない絶体絶命の状態なのです。
しかしこの曽我量深先生の言葉は、このどうにもならないくらいの苦しみの果てに、はじめてその苦しみと共に生きている善友と出遇えと願う響きを感じました。
『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』「下品下生(げぼんげしょう)」のところに
この人、苦に逼(せ)められて念仏するに遑(いとま)あらず。善友告げて言わく、「汝もし念ずるに能(あた)わずは、無量寿仏と称すべし」と。(真宗聖典120頁)
苦しみに責められてお念仏する間もないくらいの人が、自分のことを知ってくれている人・善友に出遇う。そして善友は「お念仏できないのなら、ただ南無阿弥陀仏と称えて下さい」と願う。
自分のことを知ってくれている人はどういう人なのか。それは同じ人間として生まれ、同じ人間としての悲しみや苦しみを同じように背負っている人のことをいうのでしょう。
『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』では
もろもろの庶類(しょるい)のために
請せざる友と作(な)る (真宗聖典6頁)
仏は自分の苦しみと善友となるように自らが南無阿弥陀仏の声となって下さったのでしょう。どうにもならない自分の苦しみの堪えない勘忍土のところで、そばにいるかのように南無阿弥陀仏の声となって下った。
仏が「共に念仏申して下さい」との願いを、勘忍土の苦しみのところで歎いていたのです。その苦しみのところで聞こえねばならない仏の願い。その願いが聞こえるべきものとして仏が逆に苦悩の衆生を信じていたのです。
だからそのことを通して、この勘忍土のところで本当に自分が苦しんだところに他の人も苦しんでいることがわかる。そのような世界観をも聞法を通して知らされるのではないでしょうか。
又同時に「自分だけが苦労している」という傲慢さが寧ろ他人を遠ざけ、更に自分をも苦しめていたことに気づかされるのです。
江戸川本坊・銀田琢也