よそはよそ、うちはうち
親の言葉
この言葉は、誰もが一度は言われたことのある言葉ではないでしょうか。私が子どものころ、みんなが持っているゲームがほしくて、○○くんが持っているからと友達を引き合いに出し、親に買ってくれとねだったことがありました。その時に言われた言葉が「よそはよそ、うちはうち」です。これを言われてしまうと、私はもうどうすることもできず、あとは駄々をこねるぐらいしかなくなってしまったことを記憶しています。しかし、その親も私が言うことを聞かないときや悪い成績をとってきたときには、○○くんは勉強もできて言うこともきくいい子なのにどうしてお前は...と愚痴をこぼすのです。そして、それを聞いた私がここぞとばかりに「よそはよそ、うちはうち」を使うと「屁理屈言うな」で一蹴されてしまうのです。私は、昔から言葉を自分の都合のいいように解釈し、利用しようという心があったように思います。それは、間違っていると自覚しながら利用してしまうこともありますが、無自覚のうちに自分勝手に解釈し、それを信じ込んでいるということもあるのでしょう。
本来「よそはよそ、うちはうち」という言葉は、他人と比べて羨ましがったり、嫉妬したり、逆に勝ち誇って優越感に浸るということを繰り返して、苦しんでいる私たちに投げかけられる「共に是れ凡夫(ただひと)ならくのみ」という、仏さまからの言葉ではないかと思います。
私は、ご本尊を中心とする生活そのものが仏教の修行だと聞いております。他人との関わりを避けられない生活でお互いぶつかり合い、それが嫌で我慢しても我慢にも限界があり、そんな中で、もがき苦しみながら教えを聞いて何かつかんだと思っていても、生活の現場に戻れば元通りです。やはりどんなに隠そうが、対人間ではどちらも被害者意識と自分が正しくありたいという欲求が漏れてくるのです。そんな私たちのすがたを見て「おまえたちはどちらも同じ凡夫だぞ」と教えてくださるのが、仏さまの慈悲であると思うのです。そのことを知ると他人の苦しみが自分の苦しみとなり、お互い共感できるということが起こるのでしょう。
「よそはよそ、うちはうち」を使い分ける私が「共に是れ凡夫ならくのみ」を実感できるきっかけは、ご本尊を中心とする聞法生活の中で、自分の抱える問題に気づきそれに向き合いはじめた時なのだと思います。
江戸川本坊 田中雄也