生きることを学び、学ぶために生きなさい
ラーネッド
十月の言葉は同志社大学二代目学長、アメリカのドウェイト・ウィットニー・ラーネッド氏の言葉です。彼は教育者であり、キリスト教宣教師でした。
さて、私共が受ける教育は、小・中・高・大学まで学びますと十六年間、大学院まで学びますと十八年間になります。その学び方は分からないことを知る学び方であり、覚えて知識を積み重ねて行く学び方です。
これに対して仏教の学びは、積み重ねるのではなく、目覚める学びです。同じ学ぶにしても「覚える」のと、「目覚める」では漢字の「覚」は同じですが内容は異なります。
現代の学校教育の学びは、「何のために生まれてきたのか」という、人間として生まれたことの根本問題に対して、各宗旨の学校などを除いて公立の教育機関では教える科目は有りません。ですからこの根本問題が分からないままで、大人に成って行く子供が多いのです。
この根本問題を言い当てた言葉がアンパンマンの主題歌「アンパンマンのマーチ」の一番と二番の歌詞にありますのでご紹介致します。
なんのために 生まれて
なにをして 生きるのか
こたえられない なんて
そんなのはいやだ
なにが君のしあわせ
なにをして よろこぶ
わからないまま おわる
そんなのは いやだ
という言葉です。
初代大谷大学学長、清澤満之(きよざわまんし)先生は、「自己とは何ぞや、これ人生の根本的問題なり」(『清澤満之全集』「第七巻」)と申されましたが、この問題は最も大切な問題だと思います。
先程のアンパンマンのマーチのように、「なんのために生れて、なにをして生きるのか、こたえられない」「なにが君のしあわせ、なにをしてよろこぶ、わからないまま、おわる」という言葉は一体何処から起こってきたのでしょうか。
このことを起こさせて、この一点を顕かにせよという願い、私に真実の自己を顕かにすべく立ち上がらせる願い、その願いをお釈迦様は、「阿弥陀」と名付けたと思います。
今月の言葉「生きることを学び、学ぶために生きなさい」との言葉はまさしく、そのはたらきに、その願いを顕かにすべく立ち上がろうとさせる言葉であり、真実の自己を顕かにさせようとする言葉であります。
そして真実の自己としての歩みは、「三帰依文」(さんきえもん)に顕かになっています。
「三帰依文」とは、明治から大正にかけての仏教学者、大内青巒(おおうちせいらん)氏が作られたものです。この三帰文の中には、仏・法・僧(サンガ・教えを聞く仲間)の三宝に帰依する言葉があります。そこには、
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。
この言葉には三回、「衆生とともに」と繰り返されています。
お釈迦様の教えはこの「衆生とともに」の歩みです。今月の言葉に、「衆生とともに」を付けますと、「衆生とともに、生きることを学び、衆生とともに、学ぶために生きなさい」となります。キリスト教と、仏教の教学の違いはありますが、私はこの言葉から、「衆生とともに生きよ」と、課せられた問題を頂きましたので、この言葉に呼応して行きたいと思います。
船橋昭和浄苑支坊 加藤順節