親戚の法要の席で、こんな会話が、かわされたことがありました。
「今度は、私の番だ。」(笑)
「そんなこと、言ってはいけません。」(笑)
このような会話を、耳にした方は、多いと思います。話題が死のことになると、年長者が発言し、若い人が応じます。両者とも、少し笑いながらの会話です。自分の発言に照れ、それがまた、相手にも伝わるのでしょう。
この会話を、言い変えてみますと、
「死ぬ可能性が高いのは、年配者であるから、先に死ぬのは、私である。」
「それは、そうかもしれないが、すぐ、死ぬ訳ではないので、そんなことは、言わないでください。」こんな具合になるかと思います。
この会話の中には、両者に共通する観方が、隠れています。生は良いことだが、死は良くないことである、という観方です。なぜ、死は、良くないのか。それは、肉体がなくなると、自己は消えるか、という問いに、科学が、「そうだ。」と、答えているからです。死後、自己は無になるのだから、もう、どうしようもないと、考えるようになっていきます。科学が、我々に、失望を強いています。両者の笑いは、あるいは、失望の苦笑いなのかもしれません。
ところが、阿弥陀様は、必ず救う、我をたのめ、我にまかせよ、と、南無阿弥陀仏という言葉となって呼びかけています。お念仏する人たちを救おう、というのが、阿弥陀様の願いです。お念仏を称えようと思いたつだけで、浄土へ往けることが決定します。そして、ついには、仏様になります。これが、阿弥陀様の願いのはたらきです。
このはたらきは、人間の思いや考えを、超えています。
法然上人は、たくさん本を読んで、いかにも、賢明そうに振る舞う人を見て、往生できるか、どうか、わからない、とおっしゃったそうです。親鸞聖人は、阿弥陀様は、人々が、立派な理論で納得するまでもなく、往生させてくださるのだと、おっしゃっています。
浄土はどこに在るのか、阿弥陀様はどこに在らっしゃるのか、このように、疑い、立ち停まるのは、科学的な考えに馴らされているからです。現代人にとって、「愚者になる」とは、私たちの生活を、素晴らしく豊かにしてくれる科学にも、おのずから限界のあることを、正しく、知ることです。
こうしたことを、知ることが、真理を知り、本当のことを知ることです。阿弥陀様のはたらきによって、仏様にさせていただくのですから,自己は生前も死後も連続しているのです。ソクラテスの「生前も、死後も、何も妨げるものはない」という言葉も、このことを言っています。
森林公園・支坊 丸山 亮