「諸行無常」(すべてのものごとに常はない)を感じる今、私達の生きる意味とは何か。を曽我量深先生の言葉より考えたい。私達は明日この世界にいる約束を受けているのだろうか。普段私達は明日、いのちあることを当然として生活している。しかしいのちの事実(諸行無常であること)からしたら、私達は明日この世界にいる約束は受けてない。それどころかひとつの呼吸さえも約束されていない。
しかし私は、道理として理解しても頷けない。生きていることが当たり前と思っている。そのことを問題として言い当てる言葉に「邪見」という言葉がある。「邪見」とは仏教では真実を自分の都合で見ることをいう。
では「邪見」が問題となる教えは私にどう聞こえてくるのだろうか。そして、有限の時間のなかでしか生きられない自分の姿に何を学ぶのだろうか。
一年以上経ったが、東日本大震災での、洪水が全地域を覆うような映像はまさしく一寸先、「明日の約束が出来ないばかりか、一息がわからない」という、いのちの思いはかりようのなさを見せつけた。今、私が現にここに生きているとは、どういうことなのかいやおうなく考えさせられた。果たして生きていることは当たり前なのか。実は「明日の約束ができないばかりか、一息がわからない」。だからこそ現に今生きているということは、いのちは尊いのではないか。
また、二年前の九月、私の叔父(私の母の義弟)が現役の住職でありながら五十八歳の若さで癌で亡くなったのが、甥っ子の私にはとても衝撃的だった。五十代で元気だった姿がまだ最近ことのように目に浮かぶ。叔父の母は年齢は九十代。今もなお、健在である。いのちということに年齢も関係ない。
叔父はきっと私の心の中に仏となって「明日の約束ができないばかりか、一息がわからない」という、いのちの真実・尊さを教えているのではないか。また、私は叔父に「当たり前のように生きる以上に、今、君が生きているいのちとはどういうことなのか」という宿題を出されていると感じている。叔父の姿を思い出すたびに教えられる、いのちの真実と尊さについての宿題である。
いのちの真実性を問いている言葉に触れて、邪見驕慢な自分に気付いていくことこそ救いでなかろうか。私はそこから生きる意味を学んで行こうと思う。
證大寺・森林公園支坊 銀田 琢也