清沢満之は江戸末期に誕生し明治の始めにかけて活躍した僧侶である。同時代を生きた福沢諭吉により「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がひろく知られているが、清沢満之は人事を尽くすことに先んじて天命に安んじると述べている。安んじるとは、安心してまかせるというほどの意味だが、なぜ天命に安心してまかせることが成り立つのか。
天命とは我々の意思や計らいを超えた寿命や運命を指す。だからこそ自分にできる人事を尽くすことで、どのような天命でも天に不平をいわずに安心してまかせることができると考えるのだろう。
しかし人事に関わらず、不条理としか思えないことが起きる場合がある。しかし省みれば、人生は思い通りにならないことの連続ではないか。
我々は東日本大震災を経験した。地震、津波はいやおうなく地域の人々を巻き込んだ。人事を尽くしたはずの科学技術においても原発事故は想定外であった。
そもそも生まれた環境、生きる時代、授かった身体など、われわれは人事の想定を
こえたところで生かされている。また、強い意思や環境が整わなければ人事を尽くすことさえ成り立たないだろう。環境に左右されずに行動できる人は稀である。私は環境によって左右されて生きるより他ないものであり、与えられた環境を抜きにして人事を尽くすということは成り立たない。
満之と同時代に生きた藤村操は、思い通りにならない人生を悲観し、「人生不可解」と述べて自殺した。しかし不安でないようにしようという決めつけや人知で想定しようと思うこと自体が私たちを苦しめるのではないか。人智の入り込む余地のない不可解な天命だからこそ、思い通りにならない人生を託すこともできるのである。
真剣に人事を尽くそうと思えば、尽くせないことばかりであると知らされる。どうにもこうにもならない私だからこそ、仏にまかせるより他にない。自力では尽くしきれないから無限のはたらきという意味の南無阿弥陀仏にまかせるより他ないのである。有限ではいくら積み重ねても尽くしきれない不安が残る。しかし無限のはたらきにどうにもならない我が身を託すことで、有限が有限のままに安心して無限のはたらきを受けることができる。ここに私は南無、帰命する場所が与えられているのである。
證大寺住職 井上 城治