子どものころ、テレビの前に集まって家族で大笑いした記憶を思い出すことがあります。ザ・ドリフターズのコントです。
いかりや長介さんが、真面目な日常生活の中で思いがけない出来事に巻き込まれ、見事な大失敗へと転がっていく。そんな中で、最後にひと言つぶやく「だめだこりゃ」。
あの決め台詞には、不思議な味わいがありました。「だめだこりゃ」と失敗をあきらめながら、なぜだかほっとさせられる。人間のどうにもならなさが、そのまま笑いに昇華されてしまうようなひとときでした。
私自身、日暮らしのなかで、この「だめだこりゃ」を何度こぼしてきたか分かりません。思いどおりにならない毎日。やめたいと思う気持ちを今日もくり返す自分。正しく生きたいと願いながら、同じ失敗をしてしまう。「これでいいのだ」とひらきなおってみても、心の深いところでは「いや、やっぱり、だめだこりゃ」と叫んでいます。
しかし、この「だめだこりゃ」の瞬間こそ、親鸞聖人が伝えてくださった他力のはたらきの扉が開く、大きな転回の入口ではないかと思うのです。こう生きたい、こうあらねばならぬ、こうすればうまくいくはずだ。努力し、がんばって、なんとか良い自分になろうとする。気がつけば、自分を追いつめ、自分の殻の中でゆきづまってしまう。その行き止まりのところに、聞こえてくる声があるように思います。
そんな私の心に響くのが、『歎異抄』第二条の「いずれの行もおよびがたき身なれば」の一節です。これは「何をやってもできない人間なんだ」という自虐ではありません。親鸞聖人は、どんな行を修めても、どれほどまじめに努力しても、自分の力で自分を救いとれると思うのは、大きな誤りだと教えておられます。
さらに、こうも言われました。
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」。
自分の理解や修行の成果ではなく、教えに従って念仏するほかには頼むべきものは何もない、と聖人ははっきり言い切っておられます。ここに私が信心をいただく道の入口があるように思います。
私は、何とかしようと頑張ります。失敗したら立て直したい。困っている人がいれば助けようとします。しかし、それがどうにもならないと気づいたとき、心の奥から聞こえてくるのが、あの「だめだこりゃ」です。「だめだこりゃ」と正直に屈したところに、自力は破られ、はじめからはたらいていた他力が立ち上がるのではないでしょうか。なぜなら「いずれの行もおよびがたき身」だからです。この身のほどを知らされるということは、自分を見捨てる言葉ではないと思います。むしろ、自分で何とかしようとしていた執着から解き放たれ、如来の大悲に出遇う瞬間であろうと思うのです。
「だめだこりゃ」とあきらめた場所にこそ、人間の弱さや不器用さがそのまま受け容れられていく、一種の居場所のようなものが成り立ってくるように感じられます。そして、そう感じさせていただくたびに、ますます聞法の生活が私に必要だと知らされてくるのです。
江戸川本坊 大空

