ラビンドラナート・タゴール
私がこの言葉を目にしたとき、「その通り!」と感心しました。
人間は、善と悪を常識やモラルというかたちで教育されて、理性ある立派な人間になるために育てられます。幼児はやりたい放題やる中で親に怒られ褒められながら、そうやって成長していく中で善悪がわかってきます。それでも子供は悪いことだと知りつつもイタズラをします。それは大人になっても変わらないように思います。
私たちは、大人になり社会の「人々」になるのだが、その「人々」にはルールがあり、外れた者は「人々」によって袋叩きにされる。特に、芸能人・政治家はマスコミを介して、世間から叩かれます。
私たちの身近にも、同じことが起こっているのではないでしょうか。例えば、近所で犯罪が起こった時、「犯人は○○さん家の息子さんだよ」と、その家の人は近所の「人々」から陰口を言われ避けられます。さらに、嫌がらせを受けることもあります。ここには、善良な市民である自分が悪い人とは関わりたくない、子供にも関わらせたくないという意識がはたらいているのでしょう。そしてそれが凶悪な事件であればあるほど、全国に報道され、日本中の「人々」が評論家になって好き勝手にものを言う。
「人々」とは、つくられた価値観を共有する集団のことだと定義してみます。誰がつくったわけでもなく、気付けば出来上がっていた「人」の集合体です。いわば、実態のない共同幻想です。いじめにしても、理由が一応明らかな場合もありますが、「なんとなく気に食わないから」と理由がはっきりしないことが多々あります。そして、多数がそれに共鳴し、ついにいじめに発展するのです。「人々」という匿名性を持った正義はどんな残酷な事でもできるのです。しかし、それに疑問を持つ「人」も当然いるのですが、自分がターゲットになりたくないので「人々」に従う。一対一の時は優しいのに、複数人になると急にあたりが強くなるという人はいないだろうか。それもやはり「人々」における、自分のポジションを守りたいがために、それに従っているにすぎないのではないでしょうか。「人々」の中で崇められる人、卑しめられる人がいるが、やはり、理由が定かでないことがある。裸の王様で、一人ひとり、自分がバカだと思われたくなくて嘘を付き続ける内に無いはずの服が見えてくるようなものだ。そこで一人の子供が「王様は裸だよ」という。私にはその声こそが、私を驚かし、目を覚まさせる《ほんとう》からの叫びなのだと思えてくるのです。
江戸川本坊 田中 雄也