何処から何処へということは
人生の根本問題である
三木 清科学の進歩には、目を見張るものがあります。物理学は、宇宙誕生の謎を解明しようとしています。
科学の方法は、観察して、物質を見つけ調べて、数量化します。そして、こうであろうと推理した物質相互の関係を、実験により明らかにしていきます。
人間は、この物質相互の関係を応用して、生活を便利にしてきました。そのため、近現代人は、ものごとを科学的に捉えることは、正しく、善いことだと考えました。人間の死についても、死とは、肉体という物質がなくなって観察も実験もできないから、きっと、自分のすべては無になるのだと、『人は死ねばゴミになる』という本を著わす人も現れました。
どうせゴミになる人生では、虚しさを意識下に閉じ込め、この世が華と、快・楽の追求に没頭する日々が続きます。だから、求めても快・楽が得られなくなると、これからの人生、果たしてこのままでよいのかという、疑問があふれ出します。自分を見つめ、自分は一体「何処から(来て)、何処へ(往くのか)」という人生の根本問題に真正面から向き合うことになります。自分の胸に手を当てて伝わってくる鼓動は、自分のものではあっても自分ではなく、自分の意思が芽生えるはるか以前から用意されていたのものではないか、と実感します。
自分が今、ここにいることの不思議さ、限りある命である自分はどうなっていくのか、という謎に思いを致すとき、自分の意思や能力をはるかに超えた、はかり知れない無限のはたらきがあることを、識ります。自分は、はかり知れない無限のはたらきから来て、そのはたらきに還っていく。すべてのことは、このはたらきに因るのだと気附かされます。この気附きにより、虚しさを意識下に閉じ込め、快・楽を追求してきた人生から、解き放たれ脱します。
いつも当たりまえに在ると思っていた、太陽や空気、妻や夫も、はかり知れない無限のはたらきに因るものだったのかと、あらためて在ること、居ることの不思議さ、有り難さに深く感じ入ります。はかりしれない無限のはたらきに抱かれ、そのままおまかせする、そのことに感謝するこころが湧き起こってきます。
抱かれて、そのままおまかせすることを「南無」と言い、はかり知れない無限のはたらきを「阿弥陀仏」と言います。こうして、「六字のみ名を、となえつつ、世の生業(なりわい)にいそしまん」の、おかげ様の人生がはじまるのだと思います。
森林昭和浄苑支坊 丸山 亮