自分の凡夫性に 気づかないものは、
他人の凡夫性を許せない
狐野 秀存
今月のともしび掲示板は、現大谷専修学院院長の狐野秀存先生の言葉です。
大谷専修学院とは、京都、山科の地にある浄土真宗の学校です。そこでの学びは、一心不乱にお経を読んだり、滝に打たれたりするような生活ではなく、教職員・学生との共同生活を通して、お念仏の教えを学んでいくところです。
学院では寮生活を行います。12~16畳程の部屋に2人以上で住み、10人程度の班を組んでの団体行動です。寝食を共にし、寮から学校まで登校したらまず掃除、朝夕のお勤めに、日々の授業、寮に帰れば座談で自分の考えていることを述べます。規則が定められており、自分の欲望のままの生活ができない、一人になる時間も少ない、逃れられない環境から様々な思いを抱えるのです。
ですから、寮、学校で起こる問題というのは、そのまま生活に直結することになります。また学生は、10代から70代の老若男女です。年齢はバラバラで価値観は違い、合うわけがない状況にあり、その人を理解することが大変難しいのです。風呂の時間や門限など規則を順守できない人がいれば「あいつは気に食わない」と思い、授業で寝たり、さぼったりする人がいれば「ここに何をしにきたのか」といった事がいちいち問題となり話合われます。
私もその一人です。一つ一つの行動に干渉し意見を述べてくる人に対し、「あの人がいなければ、もっと過ごしやすい生活ができるのに」と考え、私の思い通りにならないこの環境は、私に原因があるのではなく、私以外のものに原因があるのだと。ですから、自分勝手にイライラし、お念仏の学校にいながら地獄の環境をつくりだして生活をしていました。
そんな時、私の班の担当であった先生から、
「自分の凡夫性に気づかないものは、他人の凡夫性を許せない」と教えて頂きました。私の在り方を見抜き、凡夫としての自覚の無さを突き付けられた言葉でありました。
その班担の先生もまた、専修学院の生徒だった頃、私と同じように行き詰まり苦悩していた時、狐野先生から教えられた言葉だったのです。
凡夫とは誰なのか、問題をつくる原因は誰にあるのか。そのことを親鸞聖人は、
「凡夫」は、すなわち、われらなり。
(『一念多念文意』聖典544頁)と示されています。
私こそが凡夫性を抱え、凡夫の身を生きている。過ちや愚かな言動や行動は、私そのものである。私に問題があるのだと。自分自身を顧みる心が大切であると考えさせられるのです。
凡夫である私が、念仏の教えを聞き続け「南無阿弥陀仏」を依り所としてどう歩めばいいのかという問いに、真正面から向き合える生き方を確かめていきたいと思います。
江戸川本坊 末廣 亮