釈尊は、生老病死の苦悩からの解放を求めて出家しました。さまざまな師を訪ね、六年にわたる苦行を行いましたが、そこに迷いや苦悩からの根本的な解決はないことを悟りました。
遂に釈尊は苦悩や迷いの元と直接に向かい合い、正しい覚りを開くまでは座を立たないことを決意をされ、菩提樹に座りました。そのときに猛烈に襲ってきたものが魔の誘惑と脅しでした。そのときの様子を経典には、「魔、官属を率(ひき)いて、来りて逼(せ)め試みる。制するに智力をもってして、みな降伏せしむ」(『大無量寿経』)と記されています。
魔の特徴は、正体を隠すことです。迷いや苦悩の原因が心の内側にあることを悟られないように姿を隠し、環境や他者に責任転嫁をしていきます。古代インド語では魔のことを、マーラと名付け、人の命を奪い、仏道の修行を妨げる働きのことを指します。人の命を奪うということは、真実に生きようとすること、自分が何者かを見つめようとすることを妨害して、いたずらに人生を浪費させていくことを示しているのではないでしょうか。
普段は時間があっても、お聖教を開こうとしたり、聞法会に行こうとすると、その瞬間によそ事を思い出して忙しくなります。
『大無量寿経』には、「共に急がなくてよいことを争って急いでいる」「心のために走るように使われて安らかなる時がない」と記されている通りです。
釈尊は大いなる智慧を輝かせ、魔とは私の内側にいる煩悩であることを見抜き、戦わずして魔の力を奪いました。そのときの模様を釈尊は「魔よ、世間の人々も、神々でさえも、お前の軍勢を打ち負かすことはできないが、私は智慧によっておまえの軍勢をたやすく打ち砕く、あたかも炉で焼く前の器を石で砕くように」(『スッタ・ニパータ』)と述べられたことが伝えられています。
魔の正体を見抜き自分の心の内に見出すことは私にはできません。だからこそ釈尊が私たちを代表して魔に向き合い、正体を明らかにしてくださいました。
自分で心を見つめることができなくても、鏡を使って姿をみるように、釈尊の教えを聴聞して自分の姿を教えてもらうことができます。
私の心の中にあるということは、命のある限り魔もあるのです。だからこそ生涯聞法の歩みが大切であることが伝えられてきたのです。
井上 城治