お釈迦様の一生を八つの姿で現す八相成道。お釈迦様は、真理を解き我ら衆生を救わんが為、人の世に生まれることを決意する。入胎は母となるマーヤ夫人に人として命を宿した姿をいう。人として世に生まれる意味とは、いったいどういうことであろうか。
先日、当寺の法座【浄縁の集い】で斉藤研師が「自身出世本懐…私自身がこの世に生まれた根本目的」という問いかけをされた。続けて、この問いは自分の命をはっきりさせることであると。そして、これこそ仏教の根源的問いかけであるということを教えてくださった。言い換えると、これはお釈迦様がわざわざ人として生まれ、我らに向けて問いかけようとされていたことではなかろうか。
人として生を受けるということは、連綿と相続されてきた有限の命をいただくということ。世に出た瞬間から死に向かって無常の命を生きていくということである。そして人は限りあること、同じままでいられないことを理解する脳ミソと、感じる心を持っている。
ところが、理解はするが我がものとして受け入れることが難しい。七高僧の一人曇鸞(どんらん)大師は仏法を極め衆生を救う為に、どうにか寿命を延ばそうと仙術を学んだという。菩提流支(三蔵法師の一人)に諭され仙術を焼き捨てるまで、曇鸞大師は命を我がこととして考え、苦悩されていたのである。
ジェリー・ロペス、ハワイ出身の64歳。サーファーなどという呼び名がなかった頃、10歳で初めてサーフィンをして以来ずっと波と共にある人の言葉を紹介したい。
「昔は良かったと嘆く人もいますが、同じままで変わらないものなどありはしない。人生を留めておくことなどできはしないんです。全ては過程であり、我々はただパドルを続けるだけ。シンプルなことです。そのうちにまた新しい波が来ますよ。」
命は自分で作り出すものではない。人生もまたしかり。数多の奇跡の連続からこの一瞬を生きている。私は命を我がものとして考えると、息が詰まる。
自分の命をはっきりさせるということは、命を我がものとしないところから始まるのではないだろうか。自分の命の目的は何で、この命をどう生きるかということの前に、奇跡の歴史に裏打ちされたこの命を、この一瞬を大切にしようと思う。
そうすると人生を留めておく必要はなくなるのではないだろうか。
二度とないこの一瞬の過程の中に自分の命を生きること。そうすればおのずから生きる意欲が湧き、命の目的が見えてくる気がするのだ。
證大寺江戸川本坊 溝邊 貴彦