『何の身になるべきぞ』
弥吾坂の何身の妖怪
現在の福島県須賀川市(すかがわし)長沼に古から伝わる妖怪のお話があります。
『弥吾坂(やござか)(長沼より小中に通ずる旧道)には、何身(なんみ)という妖怪が出たという。狐とも狸ともいうが定かでない。この化物は往来の人の前に、女の姿で出て「何の身になるべきぞ」とくり返し、くり返し悲しげに語るという。よって何身とは化物に付けた字名(あざな)であるという。』
(「長沼名義考」)
妖怪とは「人知では解明できない奇怪な現象または異様な物体。ばけもの」と『広辞苑』で解釈されています。「人知では解明できない」ということであれば、様々なことやものが想像されます。自然現象もそうですが、人の心はその最たるものでしょう。自分で自分を解明することは難しい。ましてや他人の心などわかるはずもない。妖怪やばけものより一番怖いのは「人間」だとはよく言ったものです。「人間」こそがまさに「妖怪」ではないかと。
「何の身になるぞ」とくり返し悲しげに語る何身の妖怪が、私自身の姿であるとなれば、この伝説は他でもない私の人生の物語となって鬼気迫るものとなります。人の身として生まれた「私」が何者かわからない。そこに何の意味があるのかわからない。その悲しみの心が何身の妖怪としてあてもなく彷徨(さまよ)い続けるのです。
真宗念仏者の清沢満之(きよざわまんし)先生は、
「自己とは何ぞやこれ人生の根本的問題なり」というお言葉で、人と生まれたことの意味をたずねていかれました。自分は何者であるのか、この課題をいただいて生きることが人生の意味ではないかと思われます。
宗祖親鸞聖人は、遠方より命懸けで「往生極楽のみち」を訪ねてきた友人に、ただ一筋に「念仏往生のみち」を説かれました。親鸞聖人ご自身は、我が身を「罪悪生死の凡夫(ざいあくしょうじのぼんぶ)」「出離(しゅっり)の縁あることなき身」と心の底から悲しみをもって受けとめられ、そのどん底で「地獄は一定(いちじょう)すみか」の我に出遇われています。その「我」が「ただ念仏」によってのみ救済されつつあることを信ずるほかに別のみちがないことを示されたのです。それは、弥陀の本願が「地獄は一定すみか」の我が身をたすけんがための願であることへの絶対的な信心が念仏として与えられていることを知ったからに他なりません。聖人は「このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」と各自がどのように生き、どのような身になるかは、畢竟(ひっきょう)、ひとり一人のしのぎであることを課題として与えてくださいました。
この親鸞聖人の学びと生き方こそ、私の生きるみちであります。私は「仏になるべかりける身」として呼びかけられる「我が身」を生涯の課題として、念仏申す者でありたいと思っています。
この何身の妖怪伝説には続きがあります。
最後に添えておきますのでそれぞれに味わってみてください。
『ある人、小中村からこの坂を越す時、この何身に出会ったが、豪気(ごうき)な人なので少しも驚かず、「何の身にでもなれ」と言い捨てると、妖怪も何もせず近寄らなかったという。この化物の悲しみ叫ぶ声を聞いた人は数あるといわれる。
(「長沼名義考」)
江戸川本坊 大空
※参考資料『長沼町の伝説』(長沼教育委員会)