人間が時間を節約すればするほど、
生活はやせほそっていくのです。
ミヒャエル・エンデ
この言葉は、ミヒャエル・エンデの著作『モモ』の一節です。
物語のあらすじは、廃墟となった円形劇場に住みついた粗末な身なりをしたモモという少女がいました。街の人々は相談をし、モモの面倒を見ることになります。モモに話を聞いてもらうと不思議に硬くなった心が柔らかくなり悩みが消えていきました。ある時、街に時間泥棒をする灰色の男たちが現れました。男たちはいかに日常の時間に無駄があるかを説き時間を奪っていきました。モモという不思議な力を持った少女が、その組織と戦い時間を取り返そうと奮闘する物語です。
私共は日常生活をせかせかと忙しい忙しいと働いています。合理性を中心とした生き方をしているように思います。それは無駄という無駄を省いていくそんな生き方をしているのではないかと思います。
「忙しい」という字の成り立ちは心を亡くすと書くそうです。心に余裕がなく心を亡くしていると思うのです。それは心の「余白」をなくしているのだと思います。
その「余白」を亡くすとなぜ生きているのかわからなくなります。存在の意義を見失っているように思います。その「余白」には豊かさがあるように思うのです。
「余白」が今の私となって形作っていると思います。それは「個性」かもしれません。しかし、社会というのは結果しか求めていません。社会の中に生きる私自身もそうだと思います。「間に合う人」は善く「間に合わない人」は悪いと決めつけてしまいます。「個性」を消しているのは社会よりも私自身かもしれません。そんな私が真実に目覚めていかなければならないと思うのです。
親鸞聖人は『正信偈』に
帰命無量寿如来
(無量寿如来に帰命し)
聖典二〇四頁
と詠まれています。「無量寿」は量ることのできない寿(いのち)です。「帰命し」とは、「本願招換の勅命」に従うことです。それは如来の命令です。常に命の尊厳を無視している私です。如来は真実に帰りなさいと私を目覚めさせようとおはたらきくださっているのです。
證大寺 江戸川本坊 島津 俊道