本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
『高僧和讃』親鸞聖人
かつては「人生五十年」といわれました。
今では「人生百年」といわれる時代になりました。
昔の方がよかったと思う人もいれば、長く生きられる今の時代をありがたいと受けとめる人もいます。
けれども私は、ともすれば、自分の都合によって、時代の良し悪しを決めてしまっているのではないかと思っています。
人生五十年といわれた時代には、「限りあるいのちを、どう生きるのか」ということを、今よりも身近に感じていた人が多かったのかもしれません。
それに比べて現代は、「まだまだ時間がある」と思うあまり、本当にたずねるべきことを後回しにし、目先のことに追われて過ごしてしまうことがあるように思います。
平均寿命が延びたからといって、そのまま人生が豊かになるわけではありません。
いのちは、長さだけで計るものではあり
ません。
何に出遇い、何に目覚め、どのように生きていくのか。
そこに、人生の方向性が定まっていくの
ではないでしょうか。
私は、さまざまな苦労を抱えて生きてきました。
だれしも、苦労のない人生など、おそらくないのだと思います。
大切なのは、その苦労が私をどこへ導いているのか、ということです。
「このままで人生を終えてよいのだろうか」
そう自分を振り返るとき、せっかくの苦労が、ただの苦労で終わってしまうなら、心の底にむなしさを感じることがあります。
親鸞聖人は、そのような苦悩を抱えて生きる私に、
「本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし」
(『真宗聖典』五九〇頁)
とお示しくださいました。
「本願力に遇う」とは、阿弥陀仏の本願を聞き、その願いに照らされて、念仏申す身となることです。
私は、生きているかぎり、苦悩や煩悩から離れきることはできないと思います。
しかし、その苦しみの中にあっても、阿弥陀仏の本願は、私を見捨てることなく、むなしく終わらせないはたらきとして届けられることを学ばせていただいております。
苦悩がなくなるから救われるのではありません。苦悩を抱えたこの身のまま、本願に照らされ、自分の思いはからいを超えた真実に遇わせていただくのです。
そのとき、苦しみはただの苦しみで終わらず、私を教えへと導くご縁となっていきます。
人生は、長く生きることだけが尊いのではありません。本当に出遇うべき教えに出遇い、念仏とともに歩ませていただくとき、私の人生は、むなしく過ぎることがないといただいております。
これからも、いのちあるかぎり、親鸞聖人のみ教えを聞き、本願念仏の道を歩ませていただきたいと思います。
(船橋昭和浄苑支坊 黒澤 浄光)

