頼りにならないことを 頼りにしないで、
本当にたよりになることを 頼りにしませんか。
三明智彰
三明智彰先生より、頼りにならないことを頼りとするから、それが頼りにならなかったと気づいたときに「もうダメだ」と私たちは感じるのだと教えていただいた。
清沢満之先生は、明治と急速に欧米化に向けて価値を転換する最中、「精神界」という宗教雑誌を発刊し、巻頭言として次の言葉を述べている。
「人が生きるには、必ずひとつの完全な立脚が必要である。もしこれなくして世に処し、何事かを為そうとすることは、まるで浮雲のような根拠のないものの上に立って技芸をするようなものであるので、うまくいかずに転覆してしまうことは火を見るよりもあきらかである」(著者試訳)と述べ、生きる上での拠り所である「完全なる立脚地」が何かを明らかにしなければ、何をしても上滑りをしてしまうことを教えているのだと私は感じる。
しかし私たちが日頃、頼りにしているものはなんだろうか。私は平常の心では宝くじにでも当たって大金が手に入れば大方の問題は解決すると思い、または人から立派な人という評価を得たいと願っている。しかしお金や評価が私の生きる拠り所(立脚地)となるだろうか。換言すれば、この二つが手に入ることが私の幸せとなるだろうか。
もしこの二つが手に入れば、与えられた環境に感謝して満足するだろうか。きっと優越感にひたり傲慢になって満足はしないだろう。手に入らなければ入らないで「もうダメだ」と落ち込んでいく。つまり名利(名誉とお金)は私の本当の立脚地とはなり得ず、本当の救い、安心は得られないのである。
清沢満之は、「自分の内に足るを求めずして外物を追い他人に従い、それで満足を得ようとすることは見当違いである。外物を追うことは貪欲の源であり、他人に従うは瞋恚の源である」と述べ、重ねて「それでは私はどのようにして処世の完全なる立脚地を獲得したのだろうか。思うに絶対無限者である阿弥陀如来に帰依する他にはないのである」と述べている。自分の内に足ることをしらないものは、外からどれだけ与えられても満足はできないものである。
恵信尼さまは夫である親鸞聖人が師の法然上人より教えられた立脚地、拠り所として「ただ後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべき道をば、ただ一筋に仰せられ」たと伝えている
善いことができるひとも悪いことしかできない人にも、老いも若きも男も女も問わずに平等に救われる道は、ただ念仏の教えである。安芸門徒という言葉で知られるほど浄土真宗が盛んな広島に、原子爆弾が投下された日の深夜、広島の街中には念仏の声がこだましたという。救急車も医師や看護師の手当ても見込めないそのような時においても念仏はできるのである。それを頼りないと感じる見方もあるが、そのようなときに一体なにが頼りになるだろうか。もうダメだと感じるのではないだろうか。いづれの行も及びがたい身(歎異抄第二条)である私にできることは、念仏である。何がなくても私には南無阿弥陀仏がある。そして念仏ができるということ自体が、仏さまの慈悲や願いがかけられている証なのである。
日頃の生活を省みても物事は思い通りにいかないものである。しかしながら思い通りにいかないという環境に対してどのように処するのか、その態度は私たちが自由に選択できることである。もうダメだと言うのではなく、阿弥陀さまは私を見捨てない。その証が阿弥陀さまが私を見捨てないという証である「南無阿弥陀仏」なのである。今年は「もうダメだ」ではなく「南無阿弥陀仏」と称えてみませんか。
證大寺 住職 井上城治