明治時代の大谷派の僧侶に加賀の高光大船(たかみつだいせん)師がおりました。この言葉は高光先生のご長男、和也(かずや)氏の奥様、かちよ様の著書の題名です。そちらから二つの詩を紹介します。
「ありがとう」
目があるから物が見える。
鼻があるから香りがわかる。
耳があるから物音が聞こえる。
足があるから歩ける。
当たり前の有り難さが、
今日まで生きてみて、やっとわかりました。
それに心まで自由にさせていただいて、
ありがとうというよりほかにない。
この身にありがとう。
「おまかせ」
知っている人が、小便が出なくなって、
入院したと聞きました。
大小便が出るのは当たり前と思っていたのに、
大小便の出るのも当たり前ではなかったと気がつきました。
私たちが生きているということでは、
どんな些細なことですら、
自分でできるのではなかった。
先ず始めの詩ですが、皆様はお体に「ありがとう」と言ったことがありますか。かちよ様が云うとおりに目があるから物が見える。鼻があるから香りがわかる。耳があるから物音が聞こえる。足があるから歩けるのです。しかしそれぞれにお礼を言うことが無く、当たり前にしていませんでしょうか。
そして次の詩ですが、かちよ様は「大小便が出るのは当たり前と思っていたのに、大小便の出るのも当たり前ではなかったと気がつきました」と云われています。
また、「私たちが生きているということでは、どんな些細なことですら、自分でできるのではなかった」と云われましたが、実はかちよ様が普段当たり前と思って生きて来たことが、実は当たり前ではなく、有り難いことであったのです。
私共は気が付いたら、「いのち」と「身」を頂いて生まれていました。かちよ様は著書の中で自分のことを、「既製品」と云われています。この「既製品」と云う表現はとても面白いですね。「既製品」と云う意味は、「私が既に生まれていた」「私が既に大いなるはたらきに因って作られていた」ことを云っていると思います。実はこの私が既に生まれていた事実が大切なのです。何故かと言いますと、既に生まれていたとは、私が私の「存在の意義に目覚める」ことに他ならないからです。この「存在の意義に目覚める教えこそ仏教が説く要」であり、私は證大寺で行う仏教終活こそ、存在の意義に目覚めることが出来ると思っております。
さて、『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』には阿弥陀さまの本願が説かれています。その経典より古い時代に作られた『平等覚経(びょうどうかくきょう)』や『大阿弥陀経(だいあみだきょう)』では、阿弥陀さまの救済の対象は犬や猫やトンボや昆虫など広い範囲に渡って呼びかけられており、皆横一列に並んでいます。決して人間だけが特別扱いされているのではありません。
また、人間に与えられた「いのち」であるにもかかわらず、その「いのち」に執着して、「まだ生きたい、あのように、このようにしたい」と生きていますが、達成出来ないと愚痴が出ます。愚痴は人間だけに限られたもので、他の生きものにはありません。だからこそ阿弥陀さまは愚痴の人間を転じさせて、「ありがとうと言える人間にさせたい」と願われたのです。その願いを「弥陀の本願」と言い、皆平等にはたらいているのです。
昔の念仏者は、「この体は借りものや」と申しておりました。借りものですから何時かは返さなくてはなりません。返すその日まで与えられたいのちを生き生きと、感謝と尊敬にあふれた人生を歩み続ける生活が、仏教終活ではないかと思います。
船橋昭和浄苑支坊 加藤順節