この言葉は以前、某企業が全国の小学校の児童を対象として作文を募集した時に入選された、ある一年生男子の言葉です。それではまず始めにその作文を紹介します。
「おかあさん、おかあさん」ぼくがいくらよんでもへんじをしてくれないのです。あのやさしいおかあさんは、もうぼくのそばにいないのです。なくなってしまったのです。
いまぼくはたのしみにしていた、しょうがく一ねんせいになり、まいにちげんきにがっこうにかよっています。あたらしいようふく、ぼうし、ランドセル、くつで、りっぱな一ねんせいを、おかあさんにみせたいとおもいます。
ぼくはあかんぼうのとき、おとうさんをなくしたので、きょうだいもなく、おかあさんとふたりきりでした。そのおかあさんまでが、ぼくだけひとりおいて、おとうさんのいるおはかへはいってしまったのです。
いまはおじいさん、おばあさんのおうちにいます。まいにちがっこうにいくまえに、おかあさのいるぶつだんにむかって、いってまいりますをするので、おかあさんが、すぐそばにいるようなきがします。
べんきょうをよくして、おりこうになり、おとうさん、おかあさんによろこんでもらえるようなよいこになります。
でもがっこうでせんせいが、おとうさんと、おかあさんのおはなしをなさると、ぼくはさびしくてたまりません。
でも、ぼくにもおかあさんがあります。いつもむねのなかにいて、ぼくのすることをみています。
ぼくのだいすきなおかあさんは、おとなりのみいぼうちゃんや、よっちゃんのおかあさんより、いちばんよいおかあさんだとおもいます。
おかあさん、ぼくはりっぱな人になりますから、いつまでもいつまでも、ぼくのむねからどこへもいかずにみていてください。」
という作文です。
さて、お爺さんやお婆さんは、この子とお内仏(仏壇)の前でお参りを一緒にしていたと思います。大人がお参りしなければ、一年生のこの子はやらないでしょう。
ですからこの子は学校に行く前にお内仏に向かって「いってまいります」と、言ってから登校する習慣が、祖父母によって身に付いていたのでしょう。
また、お母さんは「いつもむねのなかにいて、ぼくのすることをみています。」と言うことは、お母さんが何処か遠くに行ってしまったのではないようです。お母さんを想い出す時、お母さんはこの子に「存在の意味を知らせるはたらき」として、はたらいているのではないでしょうか。
大切な人の死がご縁と成り、お念仏のみ教えを聴聞する時、今まで気が付かなかった尊いものと出遇えるのです。
人は誰でもいのちに終わりが有ることを知っています。しかし、「終わり無きいのちに帰って、そのいのちを生きよ」と願う尊いものがあるのです。それを知るには、この子が生まれて来るまで遡らなくてはなりません。そしてその起源を尋ねますと、今から四十六億年程前に地球が誕生して、三十八億年程前に海の中に生物が誕生した時まで遡ることに成ります。
この永い時を経て、大自然の恵みの世界に繋がっている「いのち」は、「縁起の法則」に因って生まれて来たのです。
お釈迦様はこのことを時間的には「無量寿」、空間的には「無量光」、総じて「阿弥陀」と教え、「いのちの根本の願い」を発見し、「弥陀の本願」という僧伽(仲間)の関係を回復する教えを説かれました。
いのちは、無量光の世界に生まれ、無量寿のいのちを生きています。そして縁起の法則に従い、幾つかの要素が集まって、仮の相となって存在しています。ところが現実は、我執の身と成って、この世界に関係し合いながら生きる他者(仲間)を見出せず、縁起の法則に反逆しています。しかしこの身が弥陀の本願に回心した時、「終わり無きいのちに帰って、そのいのちを生きる」真実の自己が誕生すると思います。
船橋昭和浄苑 加藤 順節