自殺大国日本とまで言われている世の中の現状があります。
去年1年間に自殺した人は3万513人に上り、前の年よりやや減ったものの 14年連続で3万人を超えたことが分かりました。 一日に換算してみますと80人を超える方々自らが命を絶っていることになります。
もとより人間が死ぬということは、生れてきたことが原因でしょう。死ぬ縁は千差万別です。その縁として自殺は多くの生き物の中で人間だけがなす行為だといわれています。
お釈迦さまは、われわれ人間の煩悩に「有(う)愛(あい)」と「非有(ひう)愛(あい)」があると教えてくださいます。有愛とは、いつまでも死にたくないという人間の生に対する執着のことで(存在欲)、非有愛とは、生きていることが辛い、死んだら楽になるだろうと死に対する執着のこと(非存在欲)です。
われわれ人間は、この二つの執着を持っているといわれます。
病気で死を宣告されたときに慌てるのは、生の執着よりも死にたくないと思うからです。
また死に対する恐怖や不安から死を受け止められないのです。
逆に身体は健康で心に不安を抱くと、自ら死にたいと、自分のいのちを所有化していきます。生と死をどちらも受け入れられないのが、有愛、非有愛の煩悩に悩まされている、われわれ人間の姿でしょう。
有愛と非有愛のバランスがくずれて、非有愛の煩悩が強ければ、人は死を選ばずにはおられないのです。自らいのちを絶つことは、いつでも誰でもおこりうることです。
そんな中で、仏教の教えは、落ち着いて自分自身を見つめ直し、生と死の執着から解放されて生きることを教えられていると思います。
落ちると言うと一般的には良くないイメージですが、落ちるということは大事なことで、大地に足が着くことです。
われわれ人間は、上にあがろう、登ろうとしますが、本当は思い通りにならないのだとはっきり分かることが大事なことなのです。それでも、思い通りにならないと納得できないのが、われわれ人間の落ち着かない迷いの生き方です。
そんな生き方をしているわれわれが、そんな中で人間に生まれた意義と喜びをこの身今生において見いだすために、仏教の教えを聞くことが必要になるのです。
清沢満之は、
自己(じこ)とは他(た)なし。絶対(ぜったい)無限(むげん)の妙用(みょうゆう)に乗(じょう)託(たく)して、任(にん)運(うん)に法(ほう)爾(に)に此(こ)の境遇(きょうぐう)に落(らく)在(ざい)せるもの即(すなわ)ち是(こ)れなり。
と述べられています。本当の自分に出遭うことは、現実の状況の中に、運にまかせてあるがままに身をおちつけることであるといわれます。それは、身の事実に立つこと!すなわち落ちて着くこと。
また禅宗の道元禅師は、
身心(しんしん)脱落(だつらく)
といわれ、世間ではよく「脱落してはいけない」と言われます。 脱落するということは、敗者になることを意味している場合が多いようです。 しかし、仏教ではまったく逆の意味になります。 脱落者は尊敬されるのです。 また、「脱落せよ」と指導されるぐらいだそうです。
仏教でいう脱落とは、解脱と同じ意味合いがあり、一切の苦しみや煩悩・束縛から解放されることを示しているのです。
時おり、自分の思い通りにならないことに苦しみ、悩む私自身、1冊のノートから出て来た、「落ち着くというのは落ちて着くのです」この金子大榮先生のことば、自分自身の身勝手な思いはからいの中で、善だ悪だと右往左往して、その時の都合で舞い上がり、また落ち込んだりの繰り返しです。
このたび下半期のテーマ「諸行無常を感ずる今、生きていく意味はどこにあるのか」をいただき、金子大榮先生の言葉から考えさせられ、この私自身が仏教の教えに依る意味を確認させてもらえる一つのご縁を賜りました。
證大寺 森林公園 支坊 渡邊 晃