井上陽水は歌います。「都会では自殺する若者が増えている 今朝来た新聞の片隅に書いていた」と。皆様は何を想起されるでしょうか。ニュース番組に出てくるキャスターやコメンテーターは神妙な表情をしながら、どこかで聞いたことのあるような当たり障りのない事を言います。かれらは番組を限られた枠に収めるため、時間にとらわれ、自殺した若者もパズルのピースのように見ているかもしれません。(すべてのニュースキャスターがそうではないと思いますが。)
そうかと思えば、声を荒らげ、社会批判を展開する人もいます。かれらは正義の鉄槌を下す裁判官のようであります。ニーチェは「神は死んだ」と言いましたが、今の時代はある条件を満たした人が神格化する時代なのかもしれません。(ある条件を知らないので、私の「思い込み」かもしれませんが。)
ニュースを見ている私たちは「自殺」という強いワ-ドを聞いても「またか」と思い、精神を揺さぶられる事はないのかもしれません。画面から流れてくる情報は自分とは無関係な出来事であり、回帰する日常に思われる人もいるでしょう。
CDが発売されたのは一九七二年。あさま山荘事件や、ウォーターゲート事件、ミュンヘン五輪人質事件といった歴史的事件が起きた年です。激動の時代の中で井上陽水は何を感じ取り、どのような答えを出すのか。期待する私を井上陽水はあっさり裏切ります。「だけども問題は今日の雨 傘がない」
「ん??」
私はこのフレーズを初めて聞いた時「この人はいったい何を言っているのだろう」と目が点になるくらい衝撃がありました。井上陽水にとって自殺する若者という社会問題より、「傘がない」ことの方がむしろ問題だったのです。
歌詞はその後も、「行かなくちゃ 君に逢いにいかなくちゃ 君の町に行かなくちゃ 雨にぬれ」と続きます。雨に濡れてもなお、自分にとって本当に大切な人に向かわずにはおれない描写が続きます。そして、「つめたい雨が今日は心に浸みる 君の事以外は考えられなくなる」時、井上陽水は吐露します。
「それはいい事だろ?」
自殺する若者より、傘がない事の方が問題だと言いましたが、最後の最後で不安を隠しきれず、まるで許しを請うように問いかけてきます。そこにあるのは社会の問題に対して「傘がない」という、第三者からしたら「どうでもいいわ」とツッコミが入るであろう事への申し訳なさを感じ取ることが出来ます。それでもなお、「行かなくちゃ 君に逢いにいかなくちゃ 君の町に行かなくちゃ」という抑えようの出来ない気持ちは「わかっちゃいるけどやめられない」他の誰でもない私を認め、私たちが信じて疑わない当たり前を超え、良し悪しから出離したかのように聞こえたのは私だけでしょうか。
歌詞を読むと色々な意味を見出すことが出来ます。「自分だったら・・・」と考えると、「かれら」から「われら」に転換されていきます。そこには百人いたら百通りの見方をうみ、その責任を担う一人に代わっていきます。芸人のネタにされている姿しか知らなかった私は、どろくさく、どこか「へたれ」のような自分自身を歌うおいちゃんを「かっこいいな」と思ってしまいました。皆様は何を想起されるでしょうか。
證大寺森林公園支坊 菊地 遊