昔、異国の地を仕事で旅する事がありました。前日の夜、これから始まる旅に胸を躍らせた記憶が今でもよみがえってきます。
先立って行かれたことがある先輩に、旅の様子を聞いてみると、「ある場所から見る星が本当にきれいだよ」と教えていただきました。
しかし当時の私は、先輩の話を聞いても星に対してあまり興味をそそられなかったというのが本音でした。でも、実際にそこで見た星々は言葉を失うくらいきれいでした。
一つ一つが本当に黄金のように輝いていて、私にとって忘れることが出来ない風景として記憶にあります。大きい星も小さな星も、それぞれがそれぞれに強い輝きを放っていました。
さて、今月の言葉であるワンリパブリックの曲『カウンティング・スターズ』では、「もう金を数えることはやめよう、星を数えよう」と歌われます。この曲を聞くたびに私は異国の地で見た星々を思い出します。そんな私に親鸞聖人は『弥陀経和讃』の中で、
恒沙塵数の如来は
万行の少善きらいつつ
名号不思議の信心を
ひとしくひとえにすすめしむ
と詠われております。
私は昔見た星々の輝きを無数の諸仏のように思います。そして、念仏以外の行を嫌う如来は、名号不思議の信心を等しくお勧め下さっています。その名号の不思議の信心は何を私に教えてくれているのか。
そして、旅の最終目的地はイグアスの滝でした。イグアスの滝はブラジル側から見る景色と、アルゼンチン側から見る景色とでは全く違います。アルゼンチン側から見る滝は、水の勢いと岩に打ち付ける音が悪魔の唸り声のように聞こえる事から「悪魔の喉笛」と呼ばれています。
一瞬にしてすべてを飲み込んでしまう水の勢いを目の当たりにすると、星を数える私は塵にも等しい、ちっぽけな存在だと知らされます。
しかし同時に、他者に選択をゆだねる事は出来ない主体者でもあることを想起させられます。
自らを見捨て、他者に選択をゆだねた人を「畜生」と言います。また畜生は、「残害」とも言われ、お互いに傷つけあっている世界であるとも言います。
さらに『涅槃経』には
「〈無慙愧(むざんき)〉は名づけて〈人〉とせず、名づけて〈畜生〉とす」
とも言われ、他人ごとでは済まされない問題が展開されています。
親鸞聖人がイグアスの滝を見たら何と言われるのかわかりませんが、悪魔が対象として外に存在するのではなく、私の中に悪魔がいる。
自分とは関係ないものとして関係を切断し、外に責任転嫁する。愁悩を生ずること無き心が内在し、時に魔が差す。
幻想を破る名号不思議の信心は、「真実に生きよ」と呼びかけてくださり、転じて黄金のごとく、私もまた輝く星として存在していることを歌と旅の記憶から呼び覚まされた今日この頃です。
森林公園昭和浄苑支坊 菊地 遊